第43話:ノラが、名前を書きました
六月は、花期でございます。
灰坂の九十四株のうち、白が五十三。赤と薄紅が四十一。六月八日から咲き始めて、十四日にいちばん多うございました。
数えました。開いている花がその日で四百十一輪でございます。去年の六月は丘で千二百輪ございました。株が二百十四ございましたので、そうなります。
ノラが列のあいだを歩いて数えられました。わたくしは花暦に書きます。列ごと、株ごとでございます。四百十一を数えるのに二時間かかりました。
六月十四日の夜に、花暦の写しが八十六枚とも終わりました。
十二月十三日から始めて、六か月と一日でございます。
二冊になりました。一冊は納屋の棚の上。もう一冊は、油紙に包んで箱に入れました。北へ持ってまいります。
ノラは包んだほうの箱を、しばらく持っておられました。
「奥様」
「はい」
「これ、あたし、読めますか」
「いまは、読めません」
「いつ読めますか」
わたくしは数えてみました。ノラが覚えられた字は、一月の末から数えて百八十ほどでございます。花暦に出てくる字は、二百四十ほどでございます。同じ字が繰り返し出ますので覚える数は限られております。
「六十でございます」
「六十字ですか」
「あと六十、覚えていただければ、花暦は読めます」
ノラは、箱を棚に置かれました。
「三つずつだと、二十日ですね」
「二十日でございます」
六月十八日でございました。
その日は雨で外の仕事ができませんでした。納屋で、土間に字を書いておりました。
その日の三つは〈接〉と〈台〉と〈穂〉でございます。接ぎ木の字でございます。〈接〉は画が多うございますので、二日かける約束でございました。
ノラは〈接〉を三十回ほど書かれました。それから、手を止められました。
「奥様」
「はい」
「一つ、頼んでもいいですか」
「なんでございましょう」
「教える字、今日は三つじゃなくて、四つにしてください」
「四つ目は、何でございますか」
ノラは、土間の均したところを見ておられました。
「アメリーです」
わたくしは、筆を置きました。
「四文字ございます」
「四文字ですか」
「〈アメリー〉で、四文字でございます」
ノラは、指で土間に線を引かれました。四つぶんの場所を空けられたのだと思います。
「奥様」
「はい」
「あたし、名前が入らないんです。人の名前も、花の名前も」
「存じております」
「でも、あれ、名前じゃないですよね」
「名前でございます」
「違います」
ノラは、そこで顔を上げられました。
「あれ、株です」
わたくしは、しばらく黙っておりました。
「そうでございますね」
「株なら、覚えられます」
わたくしは土間に書きました。四文字でございます。〈ア〉と〈メ〉と〈リ〉と、伸ばす棒。
ノラはそれを長くご覧になっておりました。それから、指で書かれました。
一度目は〈ア〉の払いが逆でございました。二度目は、〈メ〉が縦になりました。三度目で〈ア〉と〈メ〉が形になりました。〈リ〉は一度で書けました。棒は、最初から書けました。
七度目で、四文字が並びました。
ノラはそれをしゃがんで見ておられました。しばらく、動かれませんでした。
「奥様」
「はい」
「これ、消していいですか」
「お好きになさってください」
「消して、もう一回書きます」
ノラは手のひらで土間を均されました。それからまた書かれました。二度目は、六文字ぶんの間隔を空けて、大きく書かれました。
三度目からは、無言でございました。
雨は昼過ぎに止みました。止んでも外へは出ません。雨のあとの土は締まっております。締まった土を踏むと、根の上の空気が抜けます。抜けた土は固まります。固まった土は、次の雨を通しません。
ですから、雨の日と、その翌日は、列に入りません。灰坂へ来てからの決まりでございます。丘にいた頃も同じでございました。この決まりだけは、義母様に教わったのではございません。わたくしが十四のときに、踏んで、固めて、次の年に列を一つ枯らして覚えました。
わたくしはその横で花暦の六月の頁を開いておりました。四百十一輪の記録でございます。書きながら、去年の六月の頁も見ておりました。丘の庭でございます。千二百輪。そのうち、アメリーが二百八十輪でございました。
いまは、一輪もございません。
「ノラ」
「はい」
「二十九でございます」
ノラは、書く手を止められました。
「なんですか」
「去年の六月に、七年前の株がつけた蕾の数でございます」
「二十九です」
「はい」
「覚えてます」
「わたくしも、覚えております」
ノラは、また書き始められました。
その日、〈アメリー〉を四十二回書かれました。土間は朝より低くなっておりました。均して書いて、消して、また均すと、土が減るのでございます。
六月十九日の朝、王城から使いの方が参りました。
書状ではございません。口上でございます。
――七月十日、監督官が灰坂へ出向く。
それだけでございました。使いの方は、理由をご存じないと仰いました。
ノラが、門のところで聞いておられました。
「奥様」
「はい」
「あの人、来るんですか」
「来られるそうでございます」
「なんでですか」
「わかりません」
ノラは、門の柱に手を置かれました。
「三月に八十九持っていって、七月に来るんですよね」
「そうなります」
「四か月です」
「四か月でございます」
ノラは、そこで少し考えておられました。
「奥様。四か月って、株が枯れるのに、ちょうどですか」
「ちょうどでございます」
【今日の花暦】
花の数は、株の数に比例いたしません。株が半分になると、花は半分より少なくなります。列の端の株は日を多く受けますので、端が減ると全体の花数が落ちます。庭を半分にすると、花は四割まで減ります。去年千二百、今年四百十一でございました。
ノラは半年で百八十字を覚えました。そのあいだ一度も名前を覚えていません。〈アメリー〉を書けたのは、あれを名前だと思っていないからです。ノラにとって、あれは株でございます。
次回、七月十日でございます。監督官が灰坂へ来られます。三月一日から、四か月でございます。
ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。




