↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が浮気しましたので、庭ごと出てまいります  作者: 桜井花恋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/55

第43話:ノラが、名前を書きました

 六月は、花期でございます。


 灰坂の九十四株のうち、白が五十三。赤と薄紅が四十一。六月八日から咲き始めて、十四日にいちばん多うございました。


 数えました。開いている花がその日で四百十一輪でございます。去年の六月は丘で千二百輪ございました。株が二百十四ございましたので、そうなります。


 ノラが列のあいだを歩いて数えられました。わたくしは花暦に書きます。列ごと、株ごとでございます。四百十一を数えるのに二時間かかりました。


 六月十四日の夜に、花暦の写しが八十六枚とも終わりました。


 十二月十三日から始めて、六か月と一日でございます。


 二冊になりました。一冊は納屋の棚の上。もう一冊は、油紙に包んで箱に入れました。北へ持ってまいります。


 ノラは包んだほうの箱を、しばらく持っておられました。


「奥様」


「はい」


「これ、あたし、読めますか」


「いまは、読めません」


「いつ読めますか」


 わたくしは数えてみました。ノラが覚えられた字は、一月の末から数えて百八十ほどでございます。花暦に出てくる字は、二百四十ほどでございます。同じ字が繰り返し出ますので覚える数は限られております。


「六十でございます」


「六十字ですか」


「あと六十、覚えていただければ、花暦は読めます」


 ノラは、箱を棚に置かれました。


「三つずつだと、二十日ですね」


「二十日でございます」


 六月十八日でございました。


 その日は雨で外の仕事ができませんでした。納屋で、土間に字を書いておりました。


 その日の三つは〈接〉と〈台〉と〈穂〉でございます。接ぎ木の字でございます。〈接〉は画が多うございますので、二日かける約束でございました。


 ノラは〈接〉を三十回ほど書かれました。それから、手を止められました。


「奥様」


「はい」


「一つ、頼んでもいいですか」


「なんでございましょう」


「教える字、今日は三つじゃなくて、四つにしてください」


「四つ目は、何でございますか」


 ノラは、土間の均したところを見ておられました。


「アメリーです」


 わたくしは、筆を置きました。


「四文字ございます」


「四文字ですか」


「〈アメリー〉で、四文字でございます」


 ノラは、指で土間に線を引かれました。四つぶんの場所を空けられたのだと思います。


「奥様」


「はい」


「あたし、名前が入らないんです。人の名前も、花の名前も」


「存じております」


「でも、あれ、名前じゃないですよね」


「名前でございます」


「違います」


 ノラは、そこで顔を上げられました。


「あれ、株です」


 わたくしは、しばらく黙っておりました。


「そうでございますね」


「株なら、覚えられます」


 わたくしは土間に書きました。四文字でございます。〈ア〉と〈メ〉と〈リ〉と、伸ばす棒。


 ノラはそれを長くご覧になっておりました。それから、指で書かれました。


 一度目は〈ア〉の払いが逆でございました。二度目は、〈メ〉が縦になりました。三度目で〈ア〉と〈メ〉が形になりました。〈リ〉は一度で書けました。棒は、最初から書けました。


 七度目で、四文字が並びました。


 ノラはそれをしゃがんで見ておられました。しばらく、動かれませんでした。


「奥様」


「はい」


「これ、消していいですか」


「お好きになさってください」


「消して、もう一回書きます」


 ノラは手のひらで土間を均されました。それからまた書かれました。二度目は、六文字ぶんの間隔を空けて、大きく書かれました。


 三度目からは、無言でございました。


 雨は昼過ぎに止みました。止んでも外へは出ません。雨のあとの土は締まっております。締まった土を踏むと、根の上の空気が抜けます。抜けた土は固まります。固まった土は、次の雨を通しません。


 ですから、雨の日と、その翌日は、列に入りません。灰坂へ来てからの決まりでございます。丘にいた頃も同じでございました。この決まりだけは、義母様に教わったのではございません。わたくしが十四のときに、踏んで、固めて、次の年に列を一つ枯らして覚えました。


 わたくしはその横で花暦の六月の頁を開いておりました。四百十一輪の記録でございます。書きながら、去年の六月の頁も見ておりました。丘の庭でございます。千二百輪。そのうち、アメリーが二百八十輪でございました。


 いまは、一輪もございません。


「ノラ」


「はい」


「二十九でございます」


 ノラは、書く手を止められました。


「なんですか」


「去年の六月に、七年前の株がつけた蕾の数でございます」


「二十九です」


「はい」


「覚えてます」


「わたくしも、覚えております」


 ノラは、また書き始められました。


 その日、〈アメリー〉を四十二回書かれました。土間は朝より低くなっておりました。均して書いて、消して、また均すと、土が減るのでございます。


 六月十九日の朝、王城から使いの方が参りました。


 書状ではございません。口上でございます。


 ――七月十日、監督官が灰坂へ出向く。


 それだけでございました。使いの方は、理由をご存じないと仰いました。


 ノラが、門のところで聞いておられました。


「奥様」


「はい」


「あの人、来るんですか」


「来られるそうでございます」


「なんでですか」


「わかりません」


 ノラは、門の柱に手を置かれました。


「三月に八十九持っていって、七月に来るんですよね」


「そうなります」


「四か月です」


「四か月でございます」


 ノラは、そこで少し考えておられました。


「奥様。四か月って、株が枯れるのに、ちょうどですか」


「ちょうどでございます」

【今日の花暦】


花の数は、株の数に比例いたしません。株が半分になると、花は半分より少なくなります。列の端の株は日を多く受けますので、端が減ると全体の花数が落ちます。庭を半分にすると、花は四割まで減ります。去年千二百、今年四百十一でございました。


 ノラは半年で百八十字を覚えました。そのあいだ一度も名前を覚えていません。〈アメリー〉を書けたのは、あれを名前だと思っていないからです。ノラにとって、あれは株でございます。


 次回、七月十日でございます。監督官が灰坂へ来られます。三月一日から、四か月でございます。


 ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。