第38話:紙は、受け取られませんでした
四月四日、ノラは、五時に出られました。
その日は水を止める日でございます。四月三日から六日まで。二度目でございます。止める日は手が空きます。やることが減るからでございます。
わたくしは、灰坂で二十鉢の位置を入れ替えておりました。石の前に並べておりますと、端の二鉢だけ日が短うございます。三日ごとに回します。
ノラが戻られたのは、四時でございました。
門から入ってこられて、そのまま納屋の前に立たれました。包みを持っておられます。八十九枚を麻紐で綴じたものでございます。
「奥様」
「はい」
「渡せませんでした」
「かしこまりました」
ノラは、包みを卓に置かれました。角が少し折れております。
「七時に着きました」
「早うございますね」
「早く行けば会えると思ったので」
ノラは、そこで座られました。
「門に、紙が貼ってありました」
「はい」
「読めませんでした」
わたくしは、桶を置きました。手を拭いてから、卓の端に置きました。土のついた手で紙に触れますと、字の上に跡が残ります。跡のついた紙は、渡した先で読まれる前に汚れたものとして扱われます。
「門番の方に、お聞きになりましたか」
「聞きました。三回聞きました。三回とも、そこに書いてあると言われました」
「はい」
「だから、待ちました」
「どのくらい」
「三時間です」
ノラは、膝の上で手を組んでおられました。靴の縁に、灰坂の砂が乾いてついております。坂を二つ、行きと帰りで四つ越えて戻られました。
「十時に、掃除の人が来て、その人が読んでくれました。監督官は本日不在、って書いてありました。朝から書いてありました」
わたくしは、何も申しませんでした。
「それで、代わりの方でもいいですかって聞いたら、庭師の頭の人が出てきて」
「はい」
「受け取れないと言われました」
「理由は」
「外の者からは受け取るなと、監督官が」
ノラは、包みの角を指で伸ばしておられました。
「奥様」
「はい」
「あたし、三時間、門の前に立ってました。中の音が聞こえるんです。水を撒く音とか、鉢を置く音とか」
「はい」
「その三時間で、あたしにできたことは、一つもないです」
わたくしは、卓の向かいに座りました。水を撒く音が三時間のあいだ聞こえていたのでしたら、あの棟は四月も毎日でございます。三月一日から数えて、三十四日でございました。締めて掘った根に三十四日、間を置かずに水をやりますと、根はもう下を探しません。
「ノラ」
「はい」
「三時間、正しく待たれました」
「待っただけです」
「はい」
ノラは、顔を上げられませんでした。
「奥様、あたし、あの紙が読めてたら、七時半には帰ってました」
「そうでございますね」
「読めてたら、三時間、株の世話ができました」
わたくしは、包みを手元へ引きました。麻紐の結び目が、出るときと同じところにございます。解いておられません。渡せなかった包みを、開けずに持って帰ってこられました。
「今日、覚える三つでございますが」
「はい」
「〈本〉と〈日〉と〈不〉にいたします」
ノラが、顔を上げられました。
「〈不〉」
「〈本日不在〉の、〈不〉でございます」
ノラは、しばらくわたくしを見ておられました。それから土間へ下りて地面を均されました。指で書き始められました。
その夜にノラは、〈不〉を四十七枚書かれました。地面でございます。均して書いて、消して、また均します。八枚目までは払いが上へ跳ねておりました。二十枚目でそろいました。それでも書き続けられました。
わたくしは、二十鉢の水を戻す支度をしておりました。六日の朝に戻します。戻す水は、汲み置きでございます。井戸から出したばかりの水は冷とうございます。冷たい水を止めたあとの根に当てますと、株が二度目の冬だと思います。桶に四つ。日の当たる石の前に置いて一日置きます。
ノラは、十時まで書いておられました。四十七枚のうち、後ろの二十枚ほどは、もう手元をご覧になっておりません。地面のほうを見ずに書けるようになりますと、字は形として入っております。覚えるのは頭ではなく、手のほうでございます。
翌日、四月五日でございます。ユアン様が来られました。三度目でございます。
その日は非番でございました。今度は外套を着ておられます。
「昨日、あの子が来ていたそうですね」
「はい」
「僕は、東の温室にいました。知ったのは夕方です」
「そうでございますか」
ユアン様は、卓の上の包みをご覧になりました。
「エルシャさん」
「はい」
「それ、写させてもらえませんか」
わたくしは、包みを見ました。
「お渡しできます」
「いえ。渡してもらうと、僕が持っていることになります。そうすると、どこから出たかを聞かれます。写しなら、僕の字です」
「八十九枚ございます」
「二晩でやります」
ユアン様は、その日から二晩、灰坂に通われました。夜の八時から十一時まででございます。一晩目に四十二枚。二晩目に四十七枚。字は小そうございましたが丁寧でございました。
二晩目の終わりに、ユアン様が仰いました。
「全部は、できません」
「はい」
「僕が触れるのは、三棟目の台の上の三十一鉢だけです。床のぶんは、頭の人の担当です」
「三十一で、十分でございます」
「十分ですか」
「三十一が生きて残れば、比べられます。同じ棟で、同じ日に入れて、水のやり方だけが違うものが二つございます」
ユアン様は、筆を置かれました。二晩で八十九枚でございます。指の内側が墨で黒うございました。
「……比べて、どうするんですか」
「わたくしは、何もいたしません」
「じゃあ、なんのために」
「あとで、誰かが数えます」
ユアン様は、それ以上お聞きになりませんでした。写しを懐に入れて坂を下りていかれました。
叙勲まで、あと六日でございます。
六株の蕾は、五十四になっておりました。落ちたのは二十七。三割よりは少のうございます。
残りの十四鉢は蕾が九十一。合わせて百四十五でございます。二十鉢に要るのは百輪。四十五の余りがございますが、余りは余りではございません。四月の霜が一度来れば、二十は落ちます。夜の冷えは十日まで続きます。
十日の夜まで油紙は外しません。十一日の夕方に運び込みます。運ぶ日は、油紙をかけません。かけたまま運びますと、荷車の揺れで紙が擦れます。花弁に筋がつきます。
【今日の花暦】
水を止めるのは、株に「乾く」と思わせるためでございます。乾くと思った株は、種を作りに行きます。花は種の前段でございますから、急ぎます。三日止めて戻すと、四日早まります。ただし、これは株の寿命を四日ぶん先に使うことでもございます。
ノラは門の前で三時間立ちました。その三時間でできたことは一つもありません。奥様はそれを慰めませんでした。かわりに、その日に覚える字を〈不〉に替えました。
次回、四月十二日でございます。大階段の左右に十ずつ。二十鉢のうち一つが、前の晩に開きません。




