第32話:字を、覚えます
一月二十八日でございます。花暦の写しは、八十六枚のうち三十一枚まで進んでおりました。夜、蝋燭を二本立てて書きます。一本では手元が影になります。
写しは二冊作ります。一冊は灰坂に置きます。もう一冊は北へ持ってまいります。二冊にする理由は火でございます。納屋は一棟しかございません。燃えれば十五年が消えます。伯爵家の丘にいた頃は、母屋と庭小屋に分けて置いておりました。灰坂へ来てからは一箇所でございます。ですから写します。
写しは、そのまま書き写すのではございません。順を組み替えます。原本は日の順でございます。写しは月の順に並べ直します。六月の頁を十五年ぶん続けて置きますと、その月に何が起きるかが一目で見えます。霜の来た年、来なかった年。花が早かった年、遅かった年。日の順のままでは、そこが読めません。
その夜、ノラが「代わりましょうか」と仰いました。
「わたくしが書きます」
「奥様、右手、腫れてます」
腫れておりました。十二月から毎晩でございます。指の付け根が太くなっております。
「じゃあ、あたしが書きます。読み上げてください」
わたくしは、筆を渡しました。ノラは、紙の前に座られました。
それから、動かれませんでした。
「ノラ」
「はい」
「どうなさいましたか」
ノラは、筆を置かれました。
「奥様」
「はい」
「あたし、数は読めます」
「はい」
「字は、読めません」
蝋燭が一度、揺れました。
「一つも、でございますか」
「一つもじゃないです。〈日〉と〈水〉は読めます。〈六月〉も読めます。花暦に何度も出るので、形で覚えました」
「ほかは」
「ほかは、模様です」
わたくしは、花暦を閉じませんでした。開いたまま、そこに置いておりました。
「いつからでございますか」
「ずっとです。母が死んだのが七つのときで、そのあと村を出たので、習ってません」
「わたくしは、存じませんでした」
「言ってませんから」
ノラは、筆の先を見ておられました。
「奥様、あたし、十月に列の株を一つ足したの、覚えてますよね」
「覚えております」
「あれ、花暦を見て言ってるんじゃないんです。見てるふりです。数だけ頭に入ってて、奥様が紙をめくるのに合わせて言ってました」
「合っておりました」
「合ってても、読めてはいません」
わたくしは、少し考えました。
「ノラ」
「はい」
「五年後に、二十一におなりですね」
「なります」
「そのとき、灰坂の鉢はどなたが持っておられますか」
ノラは、答えられませんでした。
「花暦は、数だけでは足りません。日と、天気と、水の量と、いつ切ったかが書いてございます。数は、あなたのほうが正確でございます。ですが、天気は数ではございません」
「……はい」
「明日から、一日に三つ覚えます」
「三つ」
「多うございますか」
「多くないです。でも、あたし、名前が入らないんです。人の名前も、花の名前も」
「字は、名前ではございません」
ノラが、顔を上げられました。
「どういうことですか」
「〈水〉は、水のことでございます。〈日〉は、日のこと。形と、物が、一つずつ繋がっております。あなたは、繋がるものは覚えられます。球根がいくつあったかを覚えるのと、同じでございます」
ノラは、しばらく黙っておられました。
「じゃあ、〈土〉は」
わたくしは、紙の端に書きました。三本の線でございます。
「これでございます」
ノラは、それを見て、指でなぞられました。二度なぞって、三度目に筆を持たれました。
一枚目に書かれた〈土〉は、横棒が四本ございました。二枚目は三本でしたが、下の棒が短うございました。五枚目で、形になりました。
「奥様」
「はい」
「これ、土ですか」
「土でございます」
書き方は決めました。字は紙に書きません。土に書きます。納屋の前の地面を平らに均して、指で書きます。紙は高うございますし、土なら何度でも消せます。消せるほうが覚えます。書き損じが残らないからでございます。
わたくしも、そうして覚えました。十三で伯爵家の庭に入ったとき、わたくしも読めませんでした。教えてくださったのはマルタ様でございます。桶の底に水で書いて、乾く前に読ませる。乾いてしまえば消えます。急ぎますので、頭に入ります。
その夜、覚えたのは〈土〉と〈根〉と〈白〉の三つでございます。〈根〉は画が多うございましたので、三日かけることにいたしました。
書き物を仕舞うときに、ノラが花暦の一枚目を開かれました。いちばん古い頁でございます。
「奥様」
「はい」
「これ、前に見せてもらったやつですよね。上の二行」
「はい」
「これは、なんて書いてあるんですか」
わたくしは、読みました。
――土は、貸すものです。
――返すときに、良くしておきなさい。
ノラは、二行を長くご覧になっておりました。
「〈土〉が、ありますね」
「ございます」
「一つ目の字が、さっきの〈土〉です」
「そうでございます」
「奥様、この字、誰が書いたんですか」
「存じません」
「奥様の字じゃないんですよね」
「わたくしの字ではございません。義母様の字でもございません」
ノラは指で二行をなぞられました。わたくしの書いた〈土〉と、その頁の〈土〉を交互にご覧になっておりました。
わたくしも見ました。二つの〈土〉は同じ字でございます。同じ字ですが、同じ形ではございません。わたくしの〈土〉は下の棒が短うございます。義母様に教わったからでございます。義母様の〈土〉も短うございました。
頁の〈土〉は違います。下の棒が長うございます。しかも右へ流れます。最後に筆を上げるのが早いのだと思います。早く上げると、線の終わりが細くなります。この方は、急いで書く方でございます。あるいは、この国の書き方を習っていない方でございます。
「奥様」
「はい」
「この人の〈土〉、下の棒が長いです」
わたくしは、そこを見ました。長うございました。十五年、毎日開いていて、気づいておりませんでした。
【今日の花暦】
花暦に書くのは、日と、天気と、水の量と、切った日でございます。花の名は書きません。名は変わりますが、日は変わらないからです。十五年ぶんの記録のうち、九割は数字と天気で、残りが手の覚え書きでございます。
ノラは字が読めません。奥様は半年、気づきませんでした。ノラが数を言うたびに紙をめくっていたので、読めているように見えたのです。読めないと言い出したのは、腫れた手を見た日でした。
次回、北から荷が届きます。石が六つと、紙が一枚でございます。




