第17話:アメリーという名の人
紙は、二枚ございました。一枚目は、弁護士のアルベール・ソレル先生に宛てたものでございます。
――ソレル。婚姻の目録に、一項を加えてください。
――母より受け継ぎたる薔薇の株、種苗、及び園丁道具一式は、エルシャの持参財とする。
――数を書かないでください。品種も書かないでください。
――アメリー・レーンフェルト
日付は、十二年前の三月でございました。わたくしが嫁いだ月です。
わたくしは、その紙を長く見ておりました。義母様の字は、角張っておりました。若い時分のものか、あるいは体調がすでに思わしくなかったのか、わたくしにはわかりません。ただ、震えてはおりませんでした。迷いのない筆でございます。
目録は、伯爵家が作ったものだと思っておりました。慣例で作られる紙です。持参財の項に薔薇が入っていたのは、わたくしが平民の園丁の娘だから、他に書くものがなかったのだと思っておりました。
義母様が、書かせておられました。数を書かないでください。品種も書かないでください。あの一行のせいで、二百十四株が動きました。
二枚目は、宛名がございませんでした。
――エルシャ。
――あなたに、褒め言葉を言わないことにしています。
――理由は二つあります。
――一つ。あなたは褒められると、次の年に同じことをします。庭は同じことをすると駄目になります。去年うまくいったやり方は、今年の天気には合いません。あなたは覚えが良いので、褒めると覚えてしまいます。
――二つ。この家の庭を、わたしは十八年やって、うまくできませんでした。あなたは五年でわたしを追い越しました。それを口に出すのが、少し悔しいのです。
――だから、目録に書いておきます。
――あなたが何年ここにいても、株はあなたのものです。この家がどうなっても、庭はあなたが持って出られます。
――書いておきなさい、と言ったのを覚えていますか。あなたの頭は、あなたが死ぬときに一緒に死ぬからです。
――わたしの頭は、もう死にました。だからこれを書いています。
――アメリー
わたくしは、紙を膝に置きました。マルタが、井戸の縁に座っておられました。何も仰いません。風が、堆肥の山の上を通りました。落ち葉の匂いがいたしました。三か月経ちましたので、もう土でございます。
「マルタ」
「はい」
「この箱は、どこにございましたか」
「納屋の、道具棚の一番下でございます。麻袋が積んでございました」
「いつから」
「わかりません。ただ、あの棚を片づけたのは、わたくしが二十年前に一度きりでございます」
十二年、あそこにございました。わたくしは、毎日その納屋に入っておりました。夜、ノラが焚き火の前に座っておられました。
「奥様」
「はい」
「泣いてますか」
「泣いておりません」
「そうですか」
ノラは、枝を火にくべられました。
「あたし、字が読めます。少しだけ」
「はい」
「読んでいいですか」
わたくしは、二枚目を渡しました。ノラは、火の明かりで読まれました。時間がかかりました。二度、読み返されました。それから、こう仰いました。
「この人、褒めてますよね」
「褒めておりません」
「褒めてますよ。追い越されたのが悔しいって、褒めてるのと同じです」
わたくしは、火を見ておりました。
「そうですね」
「奥様」
「はい」
「あたし、この人のこと、嫌な人だと思ってましたけど」
「わたくしもです」
三日後、ソレル先生に手紙を書きました。
――先生。義母様の指図書が出てまいりました。十二年前の三月のものでございます。先生の筆でお受けになったものかと存じます。
――一つ、伺いたいことがございます。
――義母様は、母株を三株、どこから求められましたか。
返事は、五日で参りました。
――エルシャ様。よく覚えております。
――あの一項を書き加えるよう仰せつかったとき、先代の奥様は、こう申されました。
――「あの子は、うちの家の名で咲かせているのではありません。株で咲かせています。株を家に取られたら、あの子は二度と咲かせられない」
――母株の出どころは、当家の記録にございます。二十四年前、王城花壇より三株を下賜されたものでございます。
――下賜の名目は「奉納の返礼」でございました。先代の奥様が、若い時分に王妃殿下へ薔薇を献じられたとの由。
――記録には、品種名がございません。番号だけでございます。
――ヴェルダン王城花壇 系統帳 第百七号。
わたくしは、その番号を花暦の最初の頁に書き写しました。最初の頁は、十五年前のものです。わたくしが十四のときに、義母様に言われて書き始めた頁でございます。書き写して、顔を上げました。
「ノラ」
「はい」
「王城の花壇に、系統帳というものがあるそうでございます」
「けいとうちょう」
「株の親と子を書いた帳面です」
「それが、何かあるんですか」
わたくしは、鉢を一つ持ち上げました。開いた十一鉢のうちの一つです。白の縁に、薄紅が入っております。
「この株の親が、そこに書いてございます」
【今日の花暦】
「去年うまくいったやり方は、今年の天気には合いません」。これは義母様の言葉ですが、園芸の話としては正確です。同じ日付に同じことをして同じ結果が出るのは、三年に一度くらいです。だから記録を取ります。答えではなく、比べるためです。
褒めない理由を二つ書いて、そのうち一つが「悔しい」でした。この方は十八年やってうまくできず、五年で追い越されました。それを口に出さない代わりに、目録に一行書きました。効いたのは十二年後です。
次回、組合の帳面でございます。ドレーゼ夫人が、三代ぶんの名簿をお持ちでした。名簿と帳面は、突き合わせると別のことが見えます。
ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。




