第15話:献花の名簿から、消えました
八月二十日でございました。灰坂の坂道を、馬車が一台上がってまいりました。紋がございました。レーンフェルト家の紋でございます。三つの葉を組んだ形です。わたくしは井戸の縁で鉢の底を洗っておりました。夫が降りてこられました。ひと月と十日でございます。少し痩せられたように見えました。上着の肩の線が以前より落ちております。
「エルシャ」
「旦那様」
「もう、旦那様ではない」
「では伯爵様」
夫はあたりを見回されました。小屋の残った半分。井戸。堆肥の山。仮伏せの十四本の畝。
「……ここに、住んでいるのか」
「はい」
「あの屋根で」
「はい」
夫はそれ以上仰いませんでした。わたくしは鉢を置いて、手を拭きました。
「お茶をお出しできません。器がございません」
「いい」
夫は袖から紙を出されました。王城の紋が押してございました。
「これが来た」
わたくしは受け取りませんでした。夫が読み上げられました。
「――建国祭献花の件。本年、貴家よりの奉納につき、八月末日までに株数と品種の申告を求む」
「はい」
「返事を、書けない」
夫は紙を膝の上に置かれました。
「二百二十株買った。半分は枯れた。残りは葉が落ちている。蕾がついている株は四つだ」
「四つでございますか」
「四つだ」
「三十鉢でございます」
「知っている」
夫はそこで一度、言葉を切られました。
「エルシャ」
「はい」
「あの庭はどうやって九月に咲かせていた」
わたくしは、少し黙っておりました。黙っていた時間が、少し長うございました。夫が、そのあいだ何も仰らなかったのは、初めてでございます。
「八十株を、七月のうちに仕込みます」
「仕込む」
「株ごとに、水を絞る日と、遮光の布を掛ける日と、外す日を変えます。同じ株でも順番を変えれば、開く日が十日ずれます。八十株を十日おきに八組に分けて、九月三日に三十鉢が開くように寄せます」
「八組」
「八十株から三十鉢しか取れないのは寄せきれない株が出るためでございます」
夫は紙を見ておられました。
「その順番はどこにある」
「わたくしの手帳でございます」
「見せてくれ」
わたくしは袖から花暦を出しました。夫がそれを受け取られました。開かれました。しばらく、めくっておられました。それから、顔を上げられました。
「――読めない」
わたくしの字でございます。書いたのはわたくしですから、読めます。ただ、記号を使っております。丸に線を一本引いたのが「水を絞る」、二本が「遮光」、点を三つ打ったのが「深く灌水」。株には番号ではなく、庭の場所を書いてございます。「北三」「東垣五」「石の脇」。
母が字を書けませんでしたので、わたくしは母に見せる書き方を覚えました。それをそのまま使っております。
「これは、何語だ」
「わたくしの字でございます」
「解読できる者はいるか」
「おりません」
夫は、花暦を膝に置かれました。それから、こう仰いました。
「写しを、くれないか」
わたくしは、三日かけて写しを作りました。八十株ぶんの、七月から九月までの手順でございます。日付と、記号と、庭の場所を、全部書き出しました。書き出しながら、思いました。これは、届かないだろうと。記号の意味を注に書きましたが、「北三」がどの株かは、あの庭を知らなければわかりません。
二百十四株は、もうあの庭にございません。それでも、書きました。書いたものを、渡しました。
「伯爵様」
「なんだ」
「この写しの株の名は、庭の場所で書いてございます。株は、もうあちらにございません」
「わかっている」
「では、この写しは役に立ちません」
夫は、写しを受け取られました。
「わかっている」
馬車が坂を下りるとき、夫が窓から仰いました。
「エルシャ」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「なぜ、書いた」
わたくしは、少し考えました。
「聞かれましたので」
夫は、それに何も仰いませんでした。馬車が坂を下りて、街道に出て、見えなくなりました。八月三十一日。王城から、名簿の写しが王都に貼り出されました。建国祭の献花を納める家の一覧でございます。十七家ございました。その中に、レーンフェルトはございませんでした。
十九年、途切れたことがなかったそうでございます。ノラが、貼り紙を見て戻ってこられました。
「奥様」
「はい」
「レーンフェルト、ないです」
「はい」
「十九年ぶりですね」
「はい」
わたくしは、鉢を洗っておりました。八十鉢ございます。ドレーゼ夫人の十二リルと、アシュフォード様の五十リルと、それから灰坂の九軒の仕事で、鉢と土を買いました。仕込みを始めたのは、八月の三日でございます。二十日、遅れております。丘の庭でしたら、間に合いません。
ただ、灰坂は焼け土でございます。地面が白いので日を返します。鉢は動かせますから、日に当てる時間も、夜に取り込む温度も、株ごとに変えられます。丘ではできなかったことが、ここではできます。できるかどうかは、あと十七日で決まります。
「奥様」
「はい」
「じゃあ、今年、白い薔薇は誰が納めるんですか」
わたくしは、鉢を並べました。
「十七家のどこかでございます」
「奥様の、それは」
ノラは、八十鉢のほうを見ておられました。
「頼まれておりません」
【今日の花暦】
花期を日付に合わせる仕事は、株ごとに順番を変えることです。同じ品種でも、水を絞る日と遮光の日をずらせば、開く日が十日動きます。八十株を八組に分けて寄せると、指定日に三十鉢が揃います。寄せきれない五十株は、前後にばらけます。
写しを渡しました。字は読めても、株がどれかは分かりません。あの庭を知らないと読めない書き方だからです。奥様は意地悪をしていません。ただ、渡せるものが、もうそれしかなかったのです。
次回、九月でございます。伯爵家の庭では、二百二十株の残りが、ある日を境にまとめて片づきます。
ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。




