第9話 狼はどこで飼いますか?
「少し前から、別邸は借家としてフィオを住ませていたが、俺からの婚約祝いとしてあの屋敷はルルーシャに譲る。暫く二人でそこに住んで、いずれ結婚後にでも別で家を構えればいい。くれぐれも、仲良く暮らせよ」
エドガーから笑顔でそう言われ、ルルーシャは婚約者を紹介されたその日に、別邸へ移ることになった。
すでに、必要なものは全て領地から移すなり買い足すなりされているらしい。
顔見知りの侯爵家の使用人も数人配属済みだと言う。
「え!? フィオグラウス様が、私の部屋をご準備下さったんですか!?」
侯爵家の王都の別邸へ向かう馬車の中。
ルルーシャは、正面に座るフィオグラウスへ驚きの表情を向けた。
口に手を当て目を丸くする彼女の隣で、クロエが微笑んでいる。
「はい。先に住ませて頂いていましたし……エドガー様が、あなたには『直前まで知らせない』と仰るので。相談もせず、勝手に新しい壁紙や家具の手配をしてしまったので……気に入って頂けると良いのですが」
フィオグラウスはそう言って、少し眉を下げふわりと微笑んだ。
王都にある別邸は、もともとは祖母の邸宅だ。
素朴に暮らしていた男爵家出身の祖母のため、「人に囲まれた侯爵夫人としての生活に疲れた時、心を癒せるように」と祖父が贈ったもの。
国内指折りの名門貴族で城のような侯爵邸を持つシャルトレ家からすると、『侯爵家の別邸』と呼ぶには可愛らしすぎる三階建ての屋敷で、広い庭と小さな池があり、建物を含めた敷地は世間と隔絶するようにぐるりと花々や背の低い木々に囲まれている。
まるで童話の中に迷い込んだような、穏やかな場所だった。
結局、祖父のことが大好きだった祖母が一人きりでその家を使用することはなかったが、父が生まれてすぐの頃は、親子三人、片手で数えるほどの使用人だけを連れて、その屋敷でほのぼのと暮らしていたらしい。
「どんなお部屋か楽しみです。あの……別邸は幼い頃に数度行った程度で、実は間取りもあまり覚えていないんです。後で中を案内して頂けませんか?」
ルルーシャが恥ずかしそうに言うと、フィオグラウスは優しく目を細め「喜んで」と頷いてくれた。
屋敷に到着すると、馬車の上からメルトがひらりと降りてきた。
角があるため中には入らず、「後方も警護しやすい」という理由で、御者の隣でもなく屋根の上に乗っていたのだ。
フィオグラウスの話によると、レオドニル国では移動手段に日常では馬車を使わないらしい。
身体能力が高い彼らは自らの足で移動する方が気軽なようで、傷病人の搬送や、物の運搬、国外から来た人間用でしか馬車を使うことはなく、乗ったことがない者もざら。
長距離の移動でさえ馬車に乗らない者が多く、馬場の代わりに休憩用の宿屋や食堂が多いと説明された。
「ゆっくり運んで貰うというのも、なかなか面白いものですね」
メルトは相変わらずの無表情だが、その瞳は僅かに満足そうな色をしている。
初めての体験が思いの外楽しかったようだ。
玄関の扉が勢いよく開き、先に空を飛んで屋敷に到着していたユーリスが笑顔で出迎えてくれた。
「若、お嬢! お待ちしてましたー。やっぱり、若がお嬢を抱えて走った方が早かったんじゃね? な、メルト」
「それは同意しますけど、そこまでの接触は尚早だと判断しての馬車だったでしょう。クロエもいますし。馬車もなかなか良かったですよ」
「えーそう? 馬車よりかは空の方がいいだろ。次は空にしようぜ。俺が背に乗せて運べばさ、お嬢とクロエの二人くらい、往復しても多分その方が早いし」
「その場合、私と若様は走る前提ですか」
「二人とも走るの好きじゃん。飛んでる俺の脚に掴まっててもいいけど」
「それなら走る方がいいですね」
屋敷の中を案内されながら、フィオグラウスと並んで歩くルルーシャの後ろで、ユーリスとメルトが好き勝手に話している。
あまりにも自由で、人間とは異なる獣人視点の話に、ルルーシャは思わず笑ってしまった。
(ふふ……私が空を飛んで……フィオグラウス様達は走るだなんて、想像もできないわ)
すると、フィオグラウスが不機嫌そうに後ろの二人を睨んで口を挟んだ。
「ルルーシャをユーリスの背に乗せることなんて一生ない」
ピシャリと言われ、空を飛ぶという楽しげな光景に思いを馳せていたルルーシャは、しょんぼりと肩を落とす。
「そ……そうですよね。重いと思いますし……往復して貰うなんて申し訳ないですもの」
しかしそこは『二人の仲を見守り隊』の隊長であるクロエが、何やら勘違いをして俯く彼女にすかさず笑顔で耳打ちした。
「お嬢様、今のは迷惑とか文化の違いとかそういう話ではなく、頬を染める場面ですよ。ルノワ様が仰ったのは、『自分以外の男が可愛い婚約者に触れるなんて許さない』ということですから」
「え?」
「そーそー。俺は今、完全なる善意の申し出に対して、若からめっちゃ牽制されただけですー」
「あからさまな嫉妬です」
三人から言われ「そうなのですか?」と尋ねるような視線でフィオグラウスを見れば、彼の顔が赤い。
「あの……はい、そうです。彼らの言う通りなので……申し訳ないのですが、空の移動は諦めて下さい。あなたが触れるのは、私だけがいいです」
口元を隠し、艶っぽく切なげに目を細めたフィオグラウスにそう請われ、ルルーシャはボッと一瞬で真っ赤になった。
「は……はい……あ……諦め、ます」
視線を伏せ、か細くそれだけ絞り出すのが精一杯だったルルーシャに、『見守り隊』はニコニコと追撃の言葉を放った。
「お嬢様、ルノワ様とは早急に仲良しになって頂かなければいけないんです。すれ違っている暇はないですからね!」
「そうです。安心して若様から愛されて下さい」
「半獣化状態の若はまだ無理でも、人化の姿からいちゃいちゃ始めていきましょう!」
「い……いちゃいちゃ……」
三人の圧にたじろぎ、呆然としたままただ言葉を繰り返す。
顔を赤くしキッと三人を睨んだフィオグラウスは、ルルーシャに向き直ると困ったように眉を下げ優しく微笑んだ。
「ルルーシャ、三人の言うことは気にしなくていいですから。ゆっくり……私たちなりの速度で、無理なく親しくなれればと思っていますし──」
そう言いながら、三階にある執務室と、彼の私室の場所を簡単に紹介され、その横の精緻な花模様が彫られた扉をフィオグラウスが無視して通り過ぎようとすると、『見守り隊』の三人が同時に彼を呼び止めた。
「ルノワ様」
「若様」
「若」
ぴく……と肩を揺らし、気まずそうに足を止めたフィオグラウスが、顔を顰め、視線を彷徨わせている。
「どうなさったんですか?」
ルルーシャが尋ねると、何も答えない彼を諌めるように、クロエが微笑みを深め、ユーリスがわざとらしく咳払いをし、メルトが視線で促すように扉へ首を傾けた。
観念したフィオグラウスは小さく息を吐く。
(どうしましょう……お耳と尻尾は見えていないのに……しょんぼりと垂れているのが見えるような気がしてしまうわ)
呑気にそんなことを思ったルルーシャに、視線を逸らしたフィオグラウスが言った。
「あの奥の扉が、あなたの部屋です。それで──ここが寝室です」
やや早口にそれだけ言うと、ルルーシャの手を引いて彼女の私室へ向かおうとする。
だが『見守り隊』の三人が再びそれを制止した。
「ルノワ様、お言葉が足りていません」
「ちゃんと説明しないとだろ」
「そうです、若様。はっきり仰って下さい。二人の寝室だと」
「え!?」
ルルーシャが紅茶色の目を丸くしてフィオグラウスを見ると、彼は顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を横に振った。
「違います、ルルーシャ。ここは使いません。寝るのはそれぞれの私室です」
「ですが、エドガー様からは『同じ部屋に放り込んでおけ』と言われています」
「お嬢、最近の狼は室内飼いが普通ですよ」
「ペットは飼い主と共に寝たがるものです」
「お前達、頼むからちょっと黙ってくれ!」
同じ寝室を勧めてくる三人に耐えきれなくなったフィオグラウスは、そう叫ぶなり突然ルルーシャを隠すように引き寄せ、彼女の両耳を手で覆った。
「いい加減にしろ! ルルーシャが困っているだろう!」
手で耳を塞いだ程度で音が消えるわけもなく、ルルーシャの頭の上から焦った様子のフィオグラウスの声が降ってくる。
突然、彼の胸元に引き寄せられたルルーシャは、態勢を崩して咄嗟に騎士服を掴み、縋り付くような形で向かい合うことになってしまった。
(み……耳が熱い!!)
ルルーシャは、エドガー以外の若い男性とこんなにも距離を詰めたことはない。
大きな手で両耳を塞がれ、視界はフィオグラウスの騎士服だけになり、胸元からふわと春の日向のような柔らかな彼の香りと熱を感じて、一気に鼓動が激しくなる。
咄嗟に拘束から逃げようとしたが、その前にクロエが叫んだ。
「お嬢様、動かないで下さい!」
「!?」
驚いたルルーシャの耳からフィオグラウスの両手が離れたかと思うと、そのまま彼女が逃げないよう、片手が背に回され、もう片方の手が優しく両目を覆った。
視界が真っ暗になってしまわないよう、微かに隙間が開けられている。
「な……何!?」
困惑するルルーシャに、焦った様子の四人が変わるがわる声を掛けた。
「お嬢様、そのままゆっくり十秒数えましょう!」
「あーそうだな、二十秒……三十秒でもいいかも」
「若様、深呼吸して下さい、深呼吸。我々が揶揄い過ぎました。速やかに心を無にして下さい」
「本当にすみません、ルルーシャ……どうか暫くこのままでいて下さい」
「え……!? このまま!? む、むり……! 心臓が……爆発しそうです……!!」
震える声で頼んでも、フィオグラウスはルルーシャを離そうとしない。
それもそのはずだ。
同じ寝室で彼女の隣に眠ることを想像したフィオグラウスは、顔を朱に染め、ピンと立つ狼の耳と、大きくパタパタと揺れる尻尾が出てしまっていたのだから。




