第10話 大好きって恥ずかしい
フィオグラウスの朝は、目覚めた寝台の上、まず自分の置かれた状況に疑念を抱く事から始まる。
(……もしかしたら、まだ私は夢の中にいるのかもしれない)
ルルーシャとの生活が始まってから、早いものでもう二週間が経った。
だが、十年もの間焦がれ続けていた彼女の側に自分がいるという現実が、フィオグラウスは何度朝を迎えても未だに実感できない。
彼の胸の中には、僅かな不安と、全速力で走り出したくなる程の喜びが、常に同時に渦巻いていた。
(いや、夢じゃないのはわかっている。でも夢な気がする。早く会いたい。今すぐルルーシャに会いたい)
早々に支度を済ませ、尻尾を揺らして部屋の中をぐるぐるうろうろとしているフィオグラウスに、手紙の仕分けをしていたメルトがわざとらしくため息を吐いた。
ちなみにユーリスは日の出前から屋敷の上空を飛んでおり、見回りという名のさぼり中だ。
「若様。毎日言ってますけど、現実ですから。視界に入って邪魔なのでそわそわしないで下さい」
「仕方ないだろう。じっとしていられないんだ」
「そんなに気になるなら、早くお部屋へご挨拶に行けば良いじゃないですか」
「まだ支度の途中だったら……急かされていると感じて嫌われるかもしれない」
「それ昨日も言ってましたよ。時間もぴったり同じです。はい、悶々としてないでさっさと行く!」
部屋を追い出され、慌てて真っ白な三角耳と尻尾を隠す。
躊躇いながらも結局ルルーシャの部屋の前に立ったフィオグラウスは、緊張で息を止めながら扉をノックした。
「──ルルーシャ、おはようございます。少し早いかと思ったのですが……迎えに来ました」
できるだけ穏やかに聞こえるよう声を掛けると、中から「はい」と朗らかな声がして、心臓が跳ねる。
「お待たせしました。おはようございます、フィオグラウス様」
微笑みながら大きく扉を開けたルルーシャの姿を見て、胸の内から一気に湧いた幸福感に包まれたフィオグラウスは、甘く溶けた紫の瞳を優しく細めた。
「おはようございます、ルルーシャ」
朝からルルーシャに会えることが嬉しすぎて、思わず人化が解けそうになるのを内頬を噛んでグッと耐える。
その痛みと、目の前の彼女の笑顔によって、ようやくフィオグラウスはこれが現実だと確信できるのだ。
(よかった……今日もルルーシャがいる。夢じゃない)
手を差し出せば、ルルーシャがそっと手を重ねてくれる。
その温もりに、指先がじんと痺れた。
(……幸せすぎる)
隣に近寄って来た彼女は、サイドをゆるく編み高い位置で一つにした長い髪を、ふわふわとした尻尾のように後ろに流し、白いレースにすみれの花模様が刺繍された、ワンピースに近い普段着用の軽やかなドレスを着ている。
それはクローゼットに入りきらない程にフィオグラウスが贈ったうちの一着で、白と紫──己と同じ色の服。
(あー……どうしよう。抱きしめたい)
彼女がその服を選んだことに大した意図がないことはわかっているが、それでも独占欲が満たされるようなたまらない愛しさが込み上げ、「はあ」と吐息を溢し、見下ろす小さな丸い耳元にそっと顔を寄せた。
「ルルーシャ、今日もとても可愛らしいです」
心に浮かんだまま甘く囁けば、彼女がぼっと一瞬で耳まで茹で上がったのを見て、自身も顔を赤くしつつ、フィオグラウスは破顔した。
起床後、身支度を終えてすぐの二人は、白や黄や桃色の小さな花々が美しい絨毯を作る庭へ来るのが日課だ。
半年後の祝賀会までに何としても距離を縮めなければならない二人のため、全員で──というより主に『二人の仲を見守り隊』が意見を出して考案した特訓のうちの一つをこなすためだった。
半獣化克服のため、日々様々な難題が二人に課せられているのだが、毎朝まず朝食前に行うのは、メルト考案『そのドキドキは全部恋。愛の言葉で気持ちを作ろう大作戦』だ。
内容は至って簡単。
半獣化した状態のフィオグラウスと愛の言葉を交わし合い、ルルーシャが抱く恐怖のドキドキを恋のときめきだと錯覚させようというものだった。
王子の近衛騎士としての任務もあるフィオグラウスは日中いないことも多いため、時間は早朝に決めた。
場所が庭になったのは、「逃げ場がある方が安心する」というルルーシャの意見を尊重したためだった。
「はい、それでは今日も始めますよ」
「若、お嬢、記録更新目指しましょー!」
「お嬢様、応援していますからね!」
集合した『見守り隊』に声を掛けられ、フィオグラウスは花畑の真ん中でルルーシャの手を離し、そこから大きく十歩、距離をとって向かい合う。
「ルルーシャ、無理しなくていいですからね」
「は……はい」
緊張を滲ませ胸の前でぎゅっと両手を握るルルーシャと視線を交わし、彼女がこくりと頷いたのを合図に、フィオグラウスが人化を解き、狼の耳と尻尾が現れた。
途端にルルーシャの喉が上下するのが見えたが、フィオグラウスはそれを見なかったことにしてできる限りゆっくりと言った。
「ルルーシャ──大好きです」
心を込めて優しくじっと彼女を見つめると、固い声が返ってくる。
「わ、私も……フィオグラウス様が、だ……大好き、です」
震える彼女の目には薄ら涙が溜まっており、顔が赤い。
ルルーシャの心の中は今、恐怖と羞恥が嵐のように入り乱れ大変なことになっているだろう。
そのことが手に取るようにわかり、フィオグラウスは申し訳なく思いながらも、喜びに頬を緩めずにはいられなかった。
(もうこれは末期だな。彼女の本心ではないとわかっていても……幸せすぎておかしくなりそうだ)
胸の内でルルーシャからの愛の言葉に悶え、顔を朱に染めながらも、フィオグラウスの心にはかなりの余裕がある。
無理やり人化を保つ必要がなく、ルルーシャと距離もとっているため、侯爵邸で再会した日のように耳先や尻尾の動きまで神経を尖らせる必要もない。
ただ自由に本心で愛を囁けば、彼女が同じように言葉を返してくれるだけのこの時間は、ルルーシャには悪いが、フィオグラウスにとってはご褒美でしかなかった。
その証拠に、彼の気持ちに呼応して、尻尾はずっとパタパタ揺れたままだ。
「どうしようもなく好きです」
「私も、好き……です」
真っ赤になったルルーシャの首の後ろで、ふわふわの髪がまるで誘うように風にそよぎ、彼の瞳は期待でさらに甘さを増した。
この特訓は、言葉を交わす以外にあと二つ課題がある。
一つ。
特訓中は、視線を相手から逸らしてはいけない。
そしてもう一つ。
それぞれが愛を囁くたびに、ルルーシャが一歩、フィオグラウスに近付かなければいけないのだ。
見つめ合いながら近付く距離に、フィオグラウスはどうしても口角が上がってしまう。
「ルルーシャ、愛しています」
「わ、たしも……フィオグラウス様を、あ……愛しています」
「あなたのことが大好きです」
「ふぃ、フィオグラウス様……私も、大好きです」
「毎夜、夢に見るほど、あなたに夢中です」
「私も……フィオグラウス様に、夢中、です」
「ルルーシャ、あなたに触れられたい」
「あ……わ、私も、フィオグラウス様に──」
──触れて欲しいです。
そう返して貰いたくて、思わず喉を鳴らし息を止めてしまう。
あと数歩。
フィオグラウスなら大きく地面を一蹴りすれば彼女に手が届くその距離で、互いに頬を染めてじっと見つめ合い、ルルーシャの言葉を待つ。
「わたしも……私も、ふ、触れ──」
そこまで来て、心臓が限界を迎えたらしいルルーシャは、続きを紡ぐ前に両手でバッと顔を隠し、その場にしゃがみ込んで叫んだ。
「む、無理ですーーーーー!! もう限界です!!」
途端に『見守り隊』から声があがる。
「はい、では今日はここで終了です」
「あっはっは、ここまでかー」
「最後、惜しかったですね、お嬢様」
「も、もう無理……恥ずかしすぎます……!」
涙目で恥ずかしさに震える彼女の姿に、フィオグラウスは悩ましげな息を吐きながら、片手でニヤつく口元を覆い、幸せを噛み締めるようにぎゅっと瞳を閉じて深呼吸をした。
(はあ……ルルーシャが可愛すぎる)
幸せな特訓の時間は唐突に終わりを迎えたが、フィオグラウスはこの上なく満足しており、上機嫌だった。
「恐怖より羞恥心の方が上回ってきたようなので、良い傾向ですね」
「お嬢、新記録じゃーん!」
「お嬢様、本当に頑張りましたね! 昨日よりも一歩多く進めていましたよ!」
駆け寄った『見守り隊』に励まされながら、未だ恥ずかしさで瞳を揺らし赤面しているルルーシャへ、耳と尻尾を隠したフィオグラウスがゆっくり近寄って手を差し出した。
「ルルーシャ、頑張って下さってありがとうございます。一緒に朝食をとりましょう」
自らも顔に熱を感じながらも、穏やかに目を細めて見せれば、緊張が解けたルルーシャが「はい」と恥ずかしそうに言い、ふにゃりと眉を下げて笑う。
「ルルーシャ……あなたが婚約者になって下さって、本当に幸せです」
朝食の準備が整えられた、庭を見渡せるガゼボへ愛しい人の手を引きながら、フィオグラウスは風に溶けるほどの微かな声で、そう呟いた。




