第7話 怒れる獣達の密談1
あれから暫くして二人が皆のところへ戻ると、「お嬢様!」と笑顔で駆け寄ったクロエは、フィオグラウスの手からルルーシャをするりと引き離した。
「お嬢様、とっても頑張りましたね。クロエは感動しました! エドガー様たちはお仕事のお話があるそうなので、その間お部屋で少し休憩しましょう。お嬢様が大好きな、特製ホットチョコレートを作って差し上げますからね」
申し訳なさそうにする主人の謝罪を遮りニコニコ笑ってそう言えば、ルルーシャが「わかったわ。ありがとう」と赤い目元をふわりと和らげ微笑んでくれる。
それを見て、笑顔のクロエは心の中で泣いていた。
(早く、お嬢様をお部屋へ連れて行って差し上げなければ)
エドガーがこれからルルーシャ抜きでフィオグラウス達と話をする、というのは本当だ。
だがそんなことよりも、クロエはルルーシャの目を早く冷たいタオルで冷やしてあげたかったし、崩れた化粧も直してあげたかった。
明らかに泣いた後だと察せられるルルーシャを、早く人目から隠してあげたかった。
(お嬢様は、本当に頑張ってらっしゃるわ。あの頃から比べたら、本当に強く……お元気になられたもの)
代々侯爵家に仕えてきた家門の娘であるクロエは、同じ侯爵家の侍従と結婚しており、歳はエドガーに近い。
正式に専属侍女になったのはルルーシャが六歳の頃からだが、可愛い主人のことは彼女が生まれた時から見てきたのだ。
ルルーシャのことなら、クロエは何でも知っている。
優しいことも、笑顔が可愛らしいことも、チョコレートが大好きなことも、頑張り屋なことも、そして──どうして犬と暗闇を恐れているのかも。
フィオグラウス達から離れて二人きりになると、眉を下げたルルーシャが小さく弱音を溢した。
「クロエ……私、頑張ろうと思うけど……でもやっぱり……すごく不安だわ」
肩を落として立ち止まった大切な主人の姿に、クロエは一瞬言葉を詰まらせたが、大きく息を吸って彼女の正面に向き合って立つと、ぎゅっとルルーシャの両手を握った。
「大丈夫です、お嬢様! 一緒に頑張りましょう! クロエはずっとお側で応援しますからね!」
元気よく笑顔で精一杯励ますと、目を丸くしたルルーシャがふにゃりと笑う。
クロエもそれに一層大きくニコリと笑みを返し、二人は部屋へ向かって再び歩き出した。
ルルーシャ達が去った後、残された四人は応接室へ戻り、部屋の扉が閉まるなりフィオグラウスが苦しげに言った。
「……エドガー様、ルルーシャの先程の様子は、本当に問題ない範囲なのですよね?」
ルルーシャがいないため人化を解き現れた耳と尻尾は、見事に下がっている。
僅かに表情を曇らせたエドガーが、それを見て小さく息を吐いた。
「ああ。大丈夫だからそんなに不安がるな。あれくらいで弱音を吐いていて、これからどうするつもりだ」
「わかっています。ですがそれでも……もっと早く私から中断を申し出るべきでした。ルルーシャに……無理をさせてしまった」
全身に後悔を纏うフィオグラウスの背を、ユーリスがバシバシと叩く。
「まーしょうがないって、若。好きな子になでて貰えるかもって思ったら、獣人なんて全員抗えないでしょ。あんなに頑張ってくれてたら、そりゃ期待して待っちゃうわ」
「狼なら尚更そうですからね。お嬢様に飛びついていてもおかしくない所、むしろ若様はよく耐えてらっしゃったと思いますよ」
抑揚のないメルトの声を聞きながら、エドガーはどさりとソファに腰を下ろし、長い足を組んだ。
「たとえお前が『やめよう』と言っても、俺は許可しなかったぞ。今のルルーシャの限界がどの程度なのか正確に把握するには、結局ああするしかないからな」
そう言う彼からソファへ座るように視線で促され、フィオグラウスも向かい合う席に大人しく腰を下ろす。
その後ろには、背筋を伸ばした無表情のメルトと、ソファの背もたれに両手を掛け姿勢を崩したユーリスが並んだ。
「お嬢、若の半獣化の姿を見ても、大丈夫そうだったな」
「もう少し大変な状況も覚悟していましたが……あの状態なら、若様の耳に触れられるのも、そう遠くなさそうです」
従者の二人は内心、ルルーシャはもっと早くに、一層強くフィオグラウスに拒絶を示すと思っていたのだ。
泣いて逃げ出すくらいで済んだなら、可愛いものだった。
「簡単に言うな。私はできるだけ、ルルーシャに無理をさせたくない。彼女を……怖がらせたくないんだ」
安心したように言うユーリスとメルトに、フィオグラウスが顔を顰める。
エドガーは腕組みをしてその様子を眺めた。
「俺は正直、お前の耳と尻尾を見て、ルルーシャが全てを思い出せばと期待していたんだが……流石にそれは無理だったな」
そう言って視線を落とし、ローテーブルの木目をじっと見つめる彼の瞳には、深い苦悩が滲んでいた。
エドガーはルルーシャに対してかなり強引で横暴だ。
だが元々そうだったわけではない。
彼は歳の離れた妹を心から可愛がり、それは大切に接していたし、二人は微笑ましく仲の良い理想の兄妹として、王都でも有名だった。
変わったきっかけは、十年前。
エドガーが十八歳、ルルーシャがまだ八歳の頃のこと。
当時、騎士団司令部の官僚として国を守ることを目指し、騎士達に混ざって訓練場にいたエドガーを、顔を強張らせ血の気の引いた父が突然、国防省へ呼び出した。
「父上……今、なんと? ルルーシャが──攫われた?」
父から告げられたのは、妹が誘拐されたという衝撃の内容だった。
その日クロエは休暇で側におらず、ルルーシャは新しく入った侍女と国立公園へ花を見に出掛けており、そこで馬の獣人に連れ去られたと言う。
騎士を動員し、ようやくルルーシャを救出できたのは、彼女が攫われてから三日後のこと。
「ルルーシャ──!!」
郊外の古い屋敷に捜索隊の騎士らと共に辿り着いたエドガーが見たのは、嵐が過ぎ去った後のようにめちゃくちゃになった部屋の中、扉が開かないよう鎖で巻かれた頑丈な衣装箪笥に閉じ込められていたルルーシャと、その前に全身血まみれで倒れている──フィオグラウスだった。
後になってわかったことだが、ルルーシャと出掛けた侍女は反獣派の貴族と繋がっており、犯行に及んだ獣人は「協力しなければ家族を売り飛ばす」と脅されていた。
脅したのは、珍しい獣人や裕福な家の子どもを攫い、闇で売り捌いていた男だった。
「シャルトレ家の娘を攫えば、お貴族様から大金が入る予定だった」
捉えた男からそこまで聞き出すことはできたが、それを依頼した人物を特定する前に、その男は勾留中の牢で何者かに殺害され、協力者である侍女と獣人も、後日死体で見つかった。
反獣派による、親獣派のシャルトレ侯爵家への攻撃であり、獣人への国民の反感を高めるための策略であることは明白だった。
父は屈することなく獣人との友好を説き続けようとしたが、早々にその道は諦めることに決めた。
助け出されたルルーシャは心に深く傷を負っており、王都での生活を続けることができなかったのだ。
ルルーシャは、家族のことも含め、一切の記憶を失っていた。
「あなたは……誰ですか?」
部屋の隅で震える幼いルルーシャにそう言われた時の衝撃を、エドガーは今でも忘れられない。
暗闇に怯え、閉じ込められていた時のことを思い出して頻繁に取り乱し泣き叫ぶルルーシャは、屋敷から出すことさえできない状態だった。
それがようやくある程度落ち着くのには、丸一年もかかった。
王都を離れ領地に戻ると言う両親の代わりに、エドガーは騎士団の官僚を目指す道を諦め、さらに一年だけ猶予を貰って、二十歳で侯爵位を継いだ。
目まぐるしい日々だったが、ルルーシャの記憶を取り戻させるため、無理やりに時間を作っては領地へ行き、妹を色々な場所へ連れて行った。
彼女が五歳の頃にお忍びで行った、青空が見える大衆向けの野外劇場。
七歳の誕生日の記念にルルーシャが行ってみたいとせがみ、連れて行った宝飾店。
連れ去られる直前、クロエと初めて行った賑わう市場。
森も、湖も、海も山も。
エドガーが連れて行く場所は、そのどれもがルルーシャの思い出に繋がる場所だったし、笑うこともなく部屋に閉じこもるルルーシャの気分転換になればと、半ば強引に色々なことをやらせた。
身構えさせることがないように、その時の調子に合わせて行き先ややることを決めるため、ルルーシャには自分がかなりの暴君に映っていることはわかっている。
だが一番不安を抱き傷ついているのは彼女なのだ。
エドガーには、妹の前で心配そうな顔をしたり、不安を見せるという選択肢は存在していなかった。
何年もそうして根気強く向き合った甲斐あって、ルルーシャには徐々に笑顔が戻り、失っていた記憶も取り戻していた。
誘拐された前後──八歳から十歳の頃の記憶を除いて。




