第6話 失敗と成功
「絶対に動きません。いくらでもお待ちしますので……お好きなように触れて下さい」
侯爵家の美しい庭園。
花々に囲まれ、雪のように白いさらりとした髪に太陽の光をキラキラと弾き、目の前でひざまずくフィオグラウスは、まさに絵画から抜け出してきた美麗の騎士そのものだった。
不安と期待が混ざる美しい紫の瞳が、ルルーシャを見上げてくる。
緊張が走る縋るような表情は、大真面目な彼には悪いが、成人を迎えたばかりの乙女であるルルーシャには、完全に目の毒だった。
(か……顔が熱い)
フィオグラウスに見つめられると、それだけで頬に熱が集まり、心臓がドキドキと大きく鳴る。
だがその胸の高鳴りにも似た煩い鼓動は、次の瞬間、全く違う音を鳴らしてルルーシャを内側から叩きつけるように苦しめた。
「では──人化を解きますね」
フィオグラウスが静かにそう言って瞳を伏せた途端、ふわ……と髪が揺れたかと思うと、その頭には白くピンと立った三角の耳が現れ、太腿の後ろには、石畳に垂れるように立派な尻尾が現れた。
「──っ!!」
ルルーシャはそれを見た瞬間、顔の熱はおろか全身から血の気が引き、思わず一歩後ずさった。
(こ……怖い!!)
それまで麗しい騎士にしか見えなかったフィオグラウスが、恐ろしい白い犬と重なって見え、一瞬で恐怖に包まれる。
そこから動くことができず、じわと涙が滲み始めたルルーシャに、横からエドガーが言った。
「ルルーシャ、そいつは狼だ。犬じゃない。耳と尻尾だけを見ようとするな。ちゃんとフィオを見ろ」
その言葉で、ハッとしたルルーシャは唇を噛み締め、震える手を胸の前でぎゅっと握ると、じり……とフィオグラウスへ微かにつま先を進める。
(お兄様の言う通りだわ。頑張れ私!! フィオグラウス様のお顔だけに集中しよう。大丈夫……犬じゃない。犬じゃないから──)
それからどれだけ時間が経ったのだろう。
手は震えているし、涙目だし、心臓は全身を打ち付けるようにドクドクと鳴っている。
傍目には殆ど動いていないくらいの僅かしか、ルルーシャは距離を縮められてはいない。
ルルーシャは頑張っていた。
本当に頑張ってはいたのだ。
だがどれだけ「犬じゃない」と自分に言い聞かせても、いきなり意識を切り替えることができない。
「ぜ……絶対に動かないで下さいね!?」
距離は一向に縮まらないが、何度震える声でそう言っても、フィオグラウスは我慢強く、ひざまずいたまま、穏やかな声を返し続けてくれた。
「絶対に動きません」
「いつまででもお待ちします」
「安心して下さい。あなたの望むままに」
根気強くそう言われ、ルルーシャの意識は少しずつ耳や尻尾から彼自身に移り、じりじりと距離が近づく。
周囲で見守っていた面々は、二人の緊張が少しでも和むように「お嬢様、頑張って!」「いける、いける!」「若様、動かないで下さいね」「フィオを見ろ」と声を掛け続けた。
その甲斐もあってか、長い時間をかけ、あとほんの僅かで手が届くという距離まで、ルルーシャは近付くことに成功していた。
だが、ルルーシャが初めての挑戦にしては大健闘を見せた事が仇になった。
まさかいきなり半獣化した姿でルルーシャに触れて貰えるとは夢にも思っていなかったフィオグラウスが、心から溢れる期待を抑えきれなくなってしまっていた。
「若様、尻尾が揺れています。動いちゃダメですよ」
「あっはっは。期待しちゃってるのダダ漏れだろ、若。我慢して、ガマン」
耐えに耐えていたフィオグラウスの尻尾が、「絶対に動かない」という言葉に反し、パタパタと石畳の上で揺れる。
「うるさい、わかっている」
視線を伏せたままのフィオグラウスがサッと顔を赤くし、唇を噛んだ。
我慢はしている。
だが実のところ、フィオグラウスはルルーシャに撫でて貰うのを十年も心待ちにしていたのだ。
どうしても、気持ちが溢れ尻尾が動いてしまう。
それぞれが違うものに耐えながら向かい合い、ルルーシャの手がすぐそばに迫ったところで、フィオグラウスが先に限界を迎えてしまった。
彼女の指先が近付く気配で期待が最高潮に達し、白い獣の耳を大きくピク、と動かしてしまったのだ。
「──っ!!」
途端に、ルルーシャが大きく離れる。
「あー惜しい! 動いちゃったな、若」
「もうちょっとでしたけどね」
「お嬢様、もう一回! もう一回頑張りましょう!」
「ルルーシャ、いい加減日が暮れるぞ。そいつは犬じゃなくて狼だと言ってるだろう」
好き勝手に騒がれ、フィオグラウスだけでなく、ルルーシャの心臓ももう限界だった。
犬に対する恐怖。
フィオグラウス自身に対する胸の高鳴り。
ただ触るだけでこんなにも時間をかけてしまうことへの恥ずかしさ。
頑張らねば、と思うやる気と焦り。
失礼な態度をとってしまう申し訳なさ。
自分への落胆。
混ざり合う感情で鼓動はバクバクと乱れ、ルルーシャは茶色の大きな瞳に涙を溜めて、ワナワナと震えながら叫んだ。
「やっぱりまだ怖いの! ごめんなさい!!」
そのままバッと身を翻し、ルルーシャは庭のさらに奥へ向かって駆け出した。
「あ、お嬢様!!」
クロエが叫び、フィオグラウスが顔色を悪くして立ち上がる。
「──っ、エドガー様。どうか私に彼女を追いかける許しを下さい。お願いします!」
美しい顔を歪め、焦る声で懇願した。
エドガーはルルーシャの前で見せていた余裕のある笑みではなく、眉を寄せ、苦しげな表情で小さくため息を溢し、彼女が走り去った方向へ視線を向けた。
「……あれくらいの状態なら、お前が行ってもまだ問題ないはずだ。無理だと判断したらすぐに呼べ。行ってこい」
「はい!」
フィオグラウスは返事をするなり、風よりも早く、全速力でルルーシャを追いかけた。
狼の獣人であるフィオグラウスは、一瞬でルルーシャに追いついた。
(……ルルーシャ)
彼女は薔薇の茂みに隠れるように、芝の上で小さくうずくまって泣いていた。
その姿に、フィオグラウスの胸は張り裂けそうなほど痛んだ。
(怖がらせてしまった。全部……全部私のせいなのに)
気持ちを落ち着かせるため、一度大きく息を吸う。
彼女が逃げる猶予を与えるため、フィオグラウスはあえて気配を消さずに小さく足音を鳴らし、できるだけゆっくりと近付いた。
「……ルルーシャ」
少し離れたところから、躊躇いながらも声をかける。
ピクと肩を揺らしはしたが彼女が逃げないことに安堵し、フィオグラウスはもう一度声をかけた。
「ルルーシャ、もう耳も尻尾もありません。……そばへ行ってもいいですか?」
顔を伏せたまま返事はなかったが、少し間を置き微かにこくりと頷いて貰え、フィオグラウスは泣きたくなった。
「ありがとうございます」と言いながら、少し距離を空け、彼女と同じ目線の高さになるよう、柔らかな芝にそっと膝をつく。
ルルーシャの緩く波打つチョコレート色の髪が、震える肩を隠すように、さわと風に揺れている。
誘われるようにその髪へ伸ばした手は、そのままきつく空を握り直し、彼女に気付かれる前に己へと引き戻した。
(駄目だ、耐えろ。これ以上……怖がらせるわけにはいかない)
すぐにでも彼女を抱きしめ慰めたくなる衝動を、奥歯を噛み締めて必死で抑える。
触れることもできず、俯いて顔を隠したままのルルーシャを見つめたフィオグラウスは、降参だとばかりに、静かに謝罪を絞り出した。
「ルルーシャ……本当に申し訳ありませんでした。絶対に動かないと約束したのに、できませんでした。あなたを泣かせてしまったのは、私のせいです。怖がらせてしまって……本当にすみません」
すると言い終わらないうちに、ルルーシャが震える声を重ねた。
「──違います」
ドレスの裾を握りしめ、顔を上げた彼女の、紅茶色の瞳と目が合った。
丸い瞳にみるみる涙がたまり、ルルーシャが顔を歪めて視線を揺らすと、ぼろと大粒の雫がこぼれ落ちた。
「ち、違います。フィオグラウス様はなにも、何も悪くありません。ほ……本当にごめんなさい。頑張ったんですけど……で、できなくて……犬が……怖くて」
誠実に説明しようと、嗚咽を必死で堪えながらはらはらと泣くルルーシャに、フィオグラウスの胸は軋んだ。
「む……昔は、そんなことなかった筈なんです。犬も、だ、大好きで……触れてたはずなんです。でも、どうしてかわからないんですけど……い、いつの間にか、見るだけで震えてしまうようになってしまって……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「ルルーシャ……」
フィオグラウスは途方に暮れた。
(何もしてあげられない。ルルーシャが犬を怖がっているのは……私のせいなのに。怖がらせるとわかっているのに……私は彼女から離れたくない)
沈黙が流れ、どうすればと悩んでいると、未だ泣くルルーシャが小さく言った。
「あの……髪、に触れても……いいでしょうか」
「え?」
驚きの声が、意図せず口をつく。
申し訳なさそうに眉を下げたルルーシャは、頬を伝う涙を拭う手で、赤くなった顔を隠しながら言った。
「私……ちゃんと頑張りたいんです。今日は、お……お耳は無理でしたけど……いつかきっと平気になりますから……だから、少しでも進めるように、か……髪に、触らせて下さい!」
ルルーシャからの申し出に、フィオグラウスは泣きそうになるのを堪え、クシャリと微笑んだ。
「あなたのお好きなように……どうぞ私に触れて下さい」
ルルーシャのすぐ側にそっと近寄り、僅かに俯き視線を伏せる。
恐る恐る伸ばされた彼女の指が、フィオグラウスの髪をさらりと滑った。
(──っ!!)
触れられた瞬間、血が沸騰する程の喜びが全身を駆け巡る。
だがそれでも、フィオグラウスは身じろぎ一つせず、人化が解けそうになるのを今度こそ必死で抑えた。
彼が動かないことに安心したのか、ルルーシャはそのまま数度、ためらいを見せつつも触れるか触れないかのぎりぎり、やんわりとフィオグラウスの髪をなでる。
「ふふ……初めてお会いする方をなでるって、すごく不思議な気持ちです」
「あなたに触れて頂けて……私は……とても嬉しいです」
まだ涙が滲む瞳で恥ずかしそうに微笑んだルルーシャに、フィオグラウスは顔を僅かに赤くし、彼女を怖がらせることがないよう、優しく、甘やかに目を細めた。




