第53話 悲しみの最果て
「長官……私は言ったはずです。あなたの負けだ、と」
「──何?」
一分の焦りも生まず凛と立つエドガーの声に、グルベアの表情が曇る。
それと同時に、場違いに明るい大きな声が部屋に飛び込んできた。
「いやいや、失礼! また遅刻してしまいましたな!」
穏やかな笑みを浮かべ、巨漢を揺らしてひりつく空気を壊し入ってきたのは、ジャルジュ侯爵だった。
エドガーは煩わしげにため息を吐くと、視線を向けることなく言った。
「いえ、嫌がらせとしてはこれ以上ないぴったりの時間ですよ」
「はっはっは、結構、結構! 相手が一番嫌がる手を打つのが最善なのは、政治においても世の理においても常識でしょう」
「本当に良い性格をなさっておいでだ」
「光栄ですな、エドガー副長官殿。褒め言葉と受け取っておきましょう」
「それで、結果は」
「もちろん、勝利。万事ご指示通りに」
突然目の前で始まった普段通りの軽い応酬に、グルベアは徐々に目を見開くと、青ざめた顔で椅子から立ち上がった。
「まさか──」
震える声が小さく落ちる。
それを拾ったジャルジュ侯爵が、上着の内ポケットから折り畳まれた紙束を出し、グルベアの目の前に広げて掲げた。
「さて、本日も偉大なる長官殿に書類のご精査を願いましょう。なかなか互いに忙しい身ですからな。全て一度にご覧頂ければ結構ですよ。──どうぞ、ご確認を」
「これ、は……」
呆然とするグルベアの眼前、ずらして重ね持たれた用紙は、全部で五枚。
これまで実験を行うために使ったと思われる、人身売買組織の取引履歴の写し。
恐らく最終的な目的までは知らされていなかったであろう、使い捨てのために裏で繋がっていた反獣派貴族達の名簿。
グルベアの出生から今日までを記した、鳥人としての経歴報告書。
キフェール国王直筆の、国防省長官職の解任通知書。
並べられたどれもが、通常であれば手に入れるまでに恐ろしく時間が掛かるものばかり。
グルベアが犯人だと気付いてから行動を始め、短期間でこれらを全て集めることができたのは、政界の重鎮として数多の人脈を持つジャルジュが、確かにエドガーの味方であり奔走したことを示していた。
そして、最後の一枚は──。
「長官が手配なさった物資に、どうやら不備がありましてね。僭越ながらエドガー殿に指示を仰ぎつつ、早急に私が対処させて頂きました。本当に……全てがギリギリでしたがね」
一番上に掲げられたのは、ご丁寧に両国王家の精緻な金印が押され、レオドニル国の承諾サインが書かれた──キフェール国から臨時で支援物資差し止めを申し出る書状だった。
「こんな歳になるまで、長いこと政界に居座るものではないですな。グルベア殿の部下は、人遣いが荒い」
わざとらしく肩をすくめたジャルジュの瞳は、微かな憐憫を含んではいるが、鋭く厳しい。
グルベアは悲痛に顔を歪めて大きく肩を震わせ、己を笑うように「は──」と小さく嗚咽を漏らすと、目の前の紙達をジャルジュの手ごと乱雑に振り払った。
「なぜ……なぜ助けるんです……! 家族を殺されたのは、あなたも同じでしょう!! あんな獣どもを……なぜ……!!」
俯いて顔を覆った両手の指の隙間から、憎悪を込めた慟哭と共にぱたりぱたりと落ち続ける涙が、机を濡らしていく。
大きく舞い床に散った紙を一枚ずつ拾いながら、ジャルジュは静かに言った。
「鳥人達や……グルベア殿の境遇には、心から同情します。憎いと煮える想いも理解しましょう。許せとも言いません。だが……生きている以上、そこに囚われ続けるわけには行きますまい」
もう一度真っ直ぐに向き直った彼の、張りのある声が部屋に響く。
「貴殿は、人としての一線を超えた。苦しみから逃れるために、関係のない他人の命を巻き込むのは、あってはならないことだ。もっとしっかりと、目の前のものを見るべきだった。それこそ、私の兄を殺した獣人達とも、貴殿を苦しめた獣人達とも……今まさに平和を築こうとしている彼らは、全く別の存在なんですから」
一瞬の静寂が落ち、剣を構えたままのユーリスが言った。
「俺は鳥人だけど……あんたを庇う気にはならない。俺は獣人も人間も好きだ。俺は……ちゃんと今自分の目の前にいる人達が、みんな良い奴だって知ってる」
苦しげに眉を寄せた彼の背──立派な黒い翼を見て、グルベアの顔が眩しげに歪む。
「目というのは……一度曇ると、もう何も見えないんですよ」
言い終わるが早いか、片手を付き、まるで飛ぶように軽く机を飛び越えたグルベアは、腰の後ろに隠し持っていた短剣を引き抜き、剣を構えるフィオグラウスへ向かって駆け、目一杯それを振り抜いた。
瞬間、鋭い紫の眼光で振るわれた一閃にキンと刃は弾かれ、短剣が手から離れる。
そのままフィオグラウスの剣がグルベアの胸を貫くかという直前、ふっと身体の力を抜いたグルベアの胸ぐらが勢い良く掴まれた。
同時に、腹の底から怒りを込めたフィオグラウスの声が、部屋の空気を揺らした。
「私を……これ以上侮辱するのはやめて頂きたい……!!」
青筋を立てそう吠えた彼は、すんでの所で持っていた剣を投げ捨てていた。
「な……ぜ」
困惑した表情のグルベアの襟を掴んだまま、フィオグラウスは唸った。
「私を襲えば、復讐のために怒りでお前を殺すとでも思ったのか!! 貴様は償うべきだ!! ルルーシャや、同胞達を傷つけた分を!! 死んで苦しみから逃れるために、私を利用するのは許さない!!」
燃える瞳でグルベアを見据え、感情を押し殺すように低い声で言った。
「私がここに来たのは、お前を殺すためじゃない。真実を見るためだ。私の愛する人は……ルルーシャは恐怖の中にいても、どれだけ苦しくても、それでも懸命に私を……私自身をちゃんと見てくれた!!」
己の葛藤を打ち消し堪えるようにギリと噛んだ美しい唇から、血が伝う。
それでも、グルベアを睨みつけるフィオグラウスの瞳は、澄んだままだった。
「お前を裁くのは私ではなく法であり、国の役目だ。私はお前によって与えられた傷も、憎しみも、怒りも……決してお前に返さない! 我々はお前とは違う!! 我々は憎悪に呑まれた『獣』ではなく……理性を持つ『人』だからだ!!」
投げつけられた言葉に、漆黒の瞳が大きく揺れた。
フィオグラウスと対峙したまま、嗚咽を飲み込み力なく俯くグルベアの腕を、エドガーと騎士団長が捕える。
「グルベア侯爵殿……あなたを捕縛します」
その間も固く胸ぐらを掴んで離れないフィオグラウスの手を、エドガーが気遣うようにゆっくりと引き離した。
「フィオ──お前はよく耐えた」
朝日が映ったエドガーの濃い茶色の瞳が、ルルーシャのそれに似た紅茶色に優しく光る。
騎士達に連行され部屋から出ていくグルベアの背を見つめながら、背筋を伸ばししっかりと立つフィオグラウスの頬を、静かに涙が伝い落ちた。




