第51話 全ての悲しみの始まりは 1
日の出よりも早く、エドガーが訪れたのは王城だった。
人気もなくまだひんやりとした空気が沈む回廊に、彼と、唇を引き結ぶフィオグラウスとユーリス、それから引き連れ伴う数名の騎士と騎士団長の、固い靴音だけが響く。
足を進める間、誰も、一言も話さない。
やがて目的地である部屋の扉の前に辿り着き、全員が腰から音もなく剣を抜く。
鍵は開いていた。
ノックも無しに扉を開き中に入ると、片付けられた執務机の奥、ゆったりと椅子に腰掛け、静かな瞳で歓迎するようにただこちらを見つめる男と目が合う。
目の前まで進み出ると、机越し、エドガーは銀に光る剣の切先を男の喉元へ向けた。
冷たい視線の中に業火の如き怒りを燃やすエドガーの瞳に、男はまるで久方ぶりに出会う友へ向けるような穏やかな微笑みを返した。
「……昨夜は、楽しかったですか?」
国防省の長官室。
口端を薄く上げ、凪いだ声で沈黙を破ったのは、椅子に腰掛ける──グルベア侯爵だった。
ぴたりと剣を向けたまま、エドガーが言った。
「おかげ様で、素晴らしい宴になりました」
凍てつく声音に動じることなく、グルベアはフィオグラウスへ視線を向ける。
「……元気そうですね」
「あいにく、体は丈夫なもので」
答えた白の騎士服を纏うフィオグラウスは、どう見ても顔色が悪い。
あの悪夢のような騒ぎの後、駆けつけた医師と内密に連れ出したアデラ王女の介抱もあって、レナートは人の姿を取り戻し、フィオグラウスも驚異的な回復を見せ一命を取り留めた。
だが、腹や腕には大きく抉れるような深い傷をいくつも負っており、出血多量だった彼は今立っているのが奇跡というくらいには酷い状態だった。
それでも彼がこの場に来たのは、どうしても己の目で決着と真相を見定めたいという思いを、エドガーが汲んでくれたから。
そんなフィオグラウスに対し、わざわざ「元気そう」と言った真意が「死ななかったのか」という落胆を孕んだ言葉であることは、その場の全員が理解していた。
小さく息を吐いたグルベアが、エドガーに視線を戻す。
「先祖返りというものは……本当に厄介ですね。……残念です。私は失敗した、ということですか」
喉元へ突きつけられた剣が、窓から差し込み始めた微かな朝日を弾いて煌めいた。
「ええ。あなたの負けです……長官殿」
真っ直ぐに見つめるエドガーに向かって、グルベアは微笑みを浮かべたまま、金縁のメガネの奥で諦めたように目を伏せる。
「抵抗する気はありませんので、剣は不要ですよ。……いつから気付いていたか、お伺いしても?」
全員が剣を構え動かぬ中、エドガーだけが、静かにその切先を下ろした。
「あなたが犯人だと最初に確信したのは、メルトでした」
「ああ……あの鹿ですか」
僅かに上がった口端で吐いた言葉には、蔑みと嫌悪が乗っている。
エドガーはその声音に眉を歪めた。
「合同訓練の日。ユーリスが砂を巻き上げて風を起こした時、獣人以外誰も目を開けていられなかったあの状況で……あなたははっきりと上空へ上がった剣を視認していた。そして、その剣を払い着地しようとした時、メルトはあなたの背中に触れた」
固く握りしめた剣が、酷く重い。
「グルベア長官、あなたは──鳥人だったんですね」
その言葉に、グルベアの漆黒の瞳が一瞬苦しげに揺れた。
同時にエドガーの脳裏には、レナート達を集め副長官室で報告を行ったメルトの言葉が浮かぶ。
あの時、暗い表情のメルトはこう言った。
──グルベア侯爵は、鳥人です。飾り布もなく、人間用の服を着ている獣人がいるなど想像もしていないせいで誰も気付いていませんが、彼の背中には確かに、ユーリスと同じ、鳥人特有の骨がありました。エドガー様に頂いた貴族の各家門の資料と照らし合わせるなら……少なくとも養子として侯爵家に入った頃から四十年……彼は人化した姿で人間のふりをして暮らしている、ということです。
あの場にいた全員が、その報告に驚愕した。
人化した姿で長時間いることは、肉体にも精神にも大きな影響を及ぼす。
誰もが信じられないと報告を疑ったが、フィオグラウスは言った。
── あり得ます。犯人が……私と同じであるなら。
エドガーは炎が灯る瞳でグルベアをじっと見据える。
「我々の推測が正しいのなら、あなたはフィオと同じ──先祖返りの鳥人だ。だから耐えられた。気の遠くなる時間、周囲を欺き続けることができた。無理やり人化し続けていたんだ。常に体調が優れないのも、人間との結婚を拒み続けるのも、全ては……あなたが鳥人だからだ」
静かに耳を傾けるグルベアは、返事をしない。
だがそれこそが、辿り着いた答えが正解であると物語っていた。
「ルルーシャは朧げな記憶の中で、犯人のことを『鳥』と言った。雨の日に妹がユーリスを見て怯えたのは、瞳や髪色が犯人に似ていたからじゃない。ユーリスが鳥人だったからだ」
「……それが正解だとして……それだけでは、証拠にはなり得ない。私はただ己を人間だと偽った、書類偽装の罪にしか問えないのでは?」
「いいや、問える」
エドガーはきっぱりと言い切った。
「私は十年前、国内の貴族を徹底的に調べ、反獣派の中には犯人がいない可能性の高さに気付きました。そして……同じことに気付いた人物から接触があった。『戦争を防ぐために協力してやる。対価としてエドガー・シャルトレの座る国防省副長官の椅子を渡せ』と。私はそれに頷き、協力者を得ました」
ふっと目を細めたグルベアは、ぎし……と音を鳴らし、椅子にもたれ軽く天井を見上げた。
「……なるほど。ジャルジュ侯爵……ですか」
「私は親獣派の立場から……ジャルジュ侯爵は反獣派の立場から犯人を探すことにしました。侯爵には、敢えて一層過激に振る舞うよう頼み、関わる全ての人物の反応を観察しました。この十年、ずっと」
誰が、どの言葉に、どの振る舞いに、何を示し、どう動くのか。
わざとジャルジュに強い言葉や態度を取らせることで、反感を抱く世論を親獣派に傾かせ、同盟へ進もうとする時に政局がどう変化するのか、誰がそこに関わったかを、エドガーは必死で追い続けていた。
「少しずつ容疑者を絞り……フィオ達が入国してからは、さらに対象が狭まった。その中に、グルベア長官……あなたも含まれていた」
「それは光栄ですね」
皮肉めいた口先だけの言葉を、エドガーは無視する。
「ジャルジュ侯爵は、あなたの前でわざと『祝いの水を贈る』と言った。そして、同盟を目前に焦っていたあなたは、それに食い付いた。侯爵の贈り物の件はあなたしか知らない。そして、我が家には上等な酒が送られてきました。おかしいですよね。私と打ち合わせていた侯爵はね、あなたに確かに『水を贈る』と言ったんですよ」
グルベアの瞳が、僅かに驚きで見開かれた。
「酒が届いたことで、ジャルジュ侯爵に……反獣派に罪を被せてあなたが何かをやるつもりだとわかりました。偽の証拠として送って来たのだ、と。そしてジャルジュ侯爵の名で送られてきた酒は、真相を隠すように複数の人間が間に入ってはいましたが……調査を止めずさらに丁寧に差し向けた人物を辿れば……最後はあなたに辿り着いた」
エドガーは、メルトの報告を受けた時点で、ジャルジュ侯爵と繋がっていることをレナート達に打ち明けた。
犯人に気取られないように、十年も隠し続けていたことを獣人達は驚いたが、彼らはジャルジュが信用できる相手だというエドガーの言葉を信じ、賭けてくれていた。
「それが証拠です。全ての酒がすり替えられていることに気付くのは遅くなりましたが、幸運なことに死者はいません。あの酒も調査を進めれば、最後は同じようにあなたに辿り着けるでしょう。そして……ルルーシャは記憶を取り戻しました。あなたが十年前の事件の犯人だったと……何かの薬を飲ませ、獣化させる実験を行なっていたと、正確に証言できます」
じっと見つめるエドガーに視線を戻し、グルベアは大きくため息を吐いた。
「……本当は……もっと早くに、あの娘を殺すつもりでした」
呟いた声は、底冷えする程に冷たい。
「ですが、エドガー君の父君の守りが堅牢で……。記憶もないと聞いて、それならばと一番適した機会を待っていたんですが……遅すぎましたね」
ふと思い出したように、グルベアが言う。
「合同訓練の日……ジャルジュ侯爵が同席したのも、エドガー君の差し金ですか?」
「ええ。妹に接触し、守るように頼んでいました。結果、ジャルジュ侯爵が遅刻してきたことで感じた苛立ちと焦りは、言葉にできない程でしたが」
「はは……なるほど。ですが……それは私も同じですよ。騒乱に乗じて殺そうと席を離したのに……あの鹿に触れられた時、素性がバレてしまったと……もう時間がないと、焦りが生まれました。私は、何としても同盟を阻止したかった。あの国を……受け入れることはできなかったから」
そこまで言うと、突然、グルベアは話の相手を変えた。
「ユーリス殿は……鳥人であるあなたは……獣人を殺したいとは、思わないのですか?」
まるで明日の天気でも尋ねるような問いかけに、ユーリスは顔を顰める。
彼の返答を待ちもせず、視線も向けずにグルベアは言った。
「私はね……ずっと殺したかった。あの獣達を、一匹も残さず。ずっと」
遠くの希望を見つめ、夢を語るような声だけが、静かな部屋に落ちる。
「私はね、フクロウの鳥人なんですよ。一族の中でも珍しい……先祖返りのね。四十三年前──大戦が始まって七年が過ぎた頃……獣人達は、私の一族が住む集落にやって来ました。『戦火から保護する代わりに仲間に加われ』と。私達は、その言葉を信じて手を取りました。ただただ──悪意に対して無知だったんです」
グルベアが話しだしたのは、彼がまだ成人前の若者だった頃の話だった。




