第50話 一番怖かったもの
(守るんだ……ルルーシャを、守る)
朦朧とする意識の中で、フィオグラウスが思うのはただそれだけだった。
理性を手放し殺す気で迫ってくるレナートは強く、剣も握っていない今、彼を無力化できる道筋が見えない。
血を流しすぎたのか、とうの昔に手足の感覚はなくなっており、己がまだ立っていると証明するものはその視界の高さのみだった。
(私はどうなってもいい。ルルーシャさえ守れれば……。例えこのまま死んでも──)
対峙する金の瞳は、勝利を確信しているような残忍さで、喉を鳴らしゆるく尾を揺らしながらフィオグラウスを見ている。
それでもどうにか戦力を削がねばと焦って踏み出した──その瞬間、まるで時間が止まってしまったかのように、呼吸が止まり、耳に届いた微かな呟き以外、全ての音が消えた。
「……フィオ……?」
(──っ!!)
背後から聞こえたその懐かしい響きで心臓が大きく鳴り、同時に視界がぐらりと傾いた。
目線が床に這いつくばるように一気に低くなり、自分が倒れてしまったことに気づく。
(駄目だ……!! 駄目だ、立て!! まだ駄目だ!! 守るんだ、今度こそ君を──!!)
血でぬかるんだ絨毯の冷たさを頬に感じながら、自身を叱咤したフィオグラウスは目を疑った。
床から見上げるレナートとの間に、何度も触れたいと願ったチョコレート色の髪がふわりと靡いて飛び込んで来たのだ。
「もうやめて!! フィオを殺さないで!!」
武器のつもりなのか震えながら火かき棒を握り締め、目の前で彼を庇うルルーシャの小さな背中を見て、十年前、自分を「守ってあげる」と言って抱きしめてくれた幼い横顔が重なった。
(ルルーシャ……!!)
フィオグラウスは、ぐちゃぐちゃに混ざり喉をせり上がる絶望と歓喜とで、グシャリと顔を歪めた。
──フィオ。
はっきりとそう呼ばれ、涙が出ることのない獣の瞳が急激に熱くなる。
(駄目だ)
彼女に今すぐ駆け寄りたいのに、肺が苦しく、吠えることすらうまくできない。
(逃げて……)
縋り泣くような細い獣の声が喉から漏れ、荒い呼吸と混ざる。
(ルルーシャ、お願いだ……逃げてくれ!! 私はいいんだ……君さえ生きてくれれば、私はそれで……!! 大好きなんだ。君のことが大好きなんだ!! ルルーシャ、頼むから今すぐ逃げて!!)
嵐のように身を駆け巡る焦燥のまま必死で叫び、立ち上がろうとするが恨めしいほどに身体は言うことを聞いてくれない。
意味を成さない己の吠える声を聞きながら、視界が絶望で真っ黒に染まっていく。
(ルルーシャ……君を、守りたいんだ)
掠れる息を祈るように絞り出したその時、床に崩れたままのフィオグラウスに、視線をレナートへ注ぐルルーシャが、震える声で囁いた。
「ずっと忘れてて……ごめんなさい。一番大切だったのに」
その場にそぐわない優しい声音に、フィオグラウスは息を呑んだ。
低く「グルルル」とレナートが喉を鳴らし、まるで遊びとでも言うように獲物に狙いを定めゆっくりと姿勢を低くする。
(駄目だ)
千切れそうな心で、叫んだ。
(駄目だ、ルルーシャ!! ルルーシャ!!)
言葉は出ない。
だが吠えたフィオグラウスの思いが通じたかのように、顔だけを振り返らせたルルーシャが、月明かりに照らされふわりと微笑んだ。
「──大丈夫だよ、フィオ。なんにも怖くないよ。私が……絶対守ってあげるからね」
瞬間、大きな唸り声と共にレナートが床を蹴り跳躍する。
フィオグラウスの壁を割るような咆哮が部屋に響き、ルルーシャが身を固くした──その時。
「ルルーシャ!!」
焦りを含んだ怒声が耳に飛び込み、目前まで来ていたレナートの巨体がズシンと床を揺らしながら横倒しに転がる。
絶対絶命のその瞬間、ルルーシャとフィオグラウスの前に滑り込んできたのは、息を切らし大きく肩を揺らして剣を持つ──エドガーだった。
「おい、フィオ!! 死ぬな!! 殿下は俺が何とかしてやる!! お前は絶対死ぬな!! 死んだら許さんからな!!」
叫びながら、エドガーは起きあがった猛獣の鋭い爪を剣でいなし、ジリジリと部屋の外へ追い立てていく。
呆然とその状況を見つめていると、廊下から苦しげに息を吐くイアンの声がした。
「エ……ドガー様、援護します。殿下を……隣の部屋に……!!」
獣化の一歩手前、ギリギリの状態で何とか駆け付けてくれたのか、肩を上下させながらもしっかりとレナートを見据え剣を構えている。
「わかった。──ルルーシャ、もうすぐユーリスが医者を連れてくる!! それまでフィオを頼む!! 絶対に部屋から出るな!!」
「──っ!!」
安堵と極度の緊張に包まれているルルーシャは、兄の命令に声も出せず、ただただ首を縦に振った。
壁にかけられた絵画や調度品を破壊しつつ、二人と一頭が嵐のように部屋を出ていく。
隣の部屋に入ったのだろう騒音を聞きながら、めちゃめちゃになった暗い部屋の中で暫く立ち尽くしていたルルーシャは、何かに突き動かされるように、寝台に向かって震える足を引き摺った。
「ふ……う……うぅ……」
恐怖で固まった指を何とか一本ずつ火かき棒から離し、嗚咽を漏らしながらシーツを引き剥がす。
(血を……血を止めなきゃ)
ボロボロとこぼれる大粒の涙を拭うこともせず、唇を噛み締め顔をぐしゃぐしゃにしたルルーシャは、引っ張ってきた大きな布を、血溜まりに倒れたままの体を包むようにフィオグラウスに掛け、赤く濡れる傷に押し当てた。
「フィ……オ。フィオ。お願い……死なないで。何度でも謝るから。死なないで」
血で汚れるのも厭わずにしゃがみ込んで泣く彼女から、頭を抱え込むように首に両腕を回される。
ぎゅうと抱きしめたルルーシャの温もりを感じ、フィオグラウスの胸の内には、急速に安堵が広がった。
(泣かないで、ルルーシャ……君が謝ることなんて、何もない)
慰めるように、力を振り絞って持ち上げた鼻先を彼女の頬に擦り寄せる。
何度も「ごめんね」と繰り返すルルーシャに、そっと耳の先から首筋を撫でられ、フィオグラウスは穏やかな瞳で彼女の声に耳を傾けた。
「私……怖かったの。ずっと怖かった。本当にごめんなさい……あなたを忘れてしまって。フィオは……ずっと側にいてくれてたのに」
懺悔のような呟きに、胸が締め付けられる。
(怖くて当然だ。あんな事件に巻き込まれて……怖くない者なんていない。君は何も悪くない)
小さく優しく喉を鳴らすと、フィオグラウスの言葉が伝わったかのように、ルルーシャが言った。
「怖いことがたくさんあって……でも……でもね、私が一番怖かったのは」
撫ていた手が止まり、ほんの少しだけ離れた彼女が、紅茶色の瞳からとめどなく涙をこぼしながら、真剣な顔でじっと見つめてくる。
「あなたが死んでしまったのかもって……あなたに……フィオに、二度と会えないのかもって……それが、ずっと怖かったの」
共にいた時間はたったの三日。
だが、その出会いがなければ、お互いにあの時死んでいた。
(ルルーシャも……同じだったんだ。会えなくて苦しんでいた、私と。私だけが……私だけが、一人君を想っていたわけじゃなかったんだ)
離れていた十年。
想い続けていたことが独りよがりな愛ではなかったことが伝わり、フィオグラウスの心は震えた。
息が吸える。
傷も痛くない。
ルルーシャの温もりを感じ、撫でられ声を聴くうちに、身体の中に巣食っていた身を腐らせるような不安感が、嘘のように薄れていく。
「フィオ、もう……あなただけが頑張って私を助けようとしないで。離れて行かないで。ずっと側にいるって、もう一回……約束して」
ピンと立つ狼の耳には、愛しい彼女の声以外、世界の何の音も聞こえなかった。
「私──ちゃんとフィオを見たよ。あなたが好き。フィオが……大好き」
フィオグラウスの視界が、ボロボロと涙を流しながら無理やり作ったルルーシャの笑顔でいっぱいになる。
駆け出したくなるような熱が込み上げてきて、噛み締めるようにゆっくり瞬きをすると、ルルーシャが彼を抱きしめる腕の力を強め、フィオグラウスの額に優しくキスをした。
熱を移すように。
心を伝えるように。
そしてようやく、そっと彼女が唇を離し、目を開けた時。
「──ルルーシャ」
嗚咽で焼けそうなフィオグラウスの喉から、自分で想像していたよりも穏やかな、それでいて少しだけ情けなく震える声が出た。
どうして戻れなかったのかが不思議に思えるほど、自然に、ただ呼吸をするようにフィオグラウスは人の形を取り戻し、床に横たわったまま、愛する人の名を呼んだ。
「フィ、オ」
驚いているルルーシャを、ぐいとその身に引き寄せる。
「ルルーシャ、私も……私も、大好きだよ。出会った時から、ずっと」
腕に閉じ込めたぬくもりが、応えるように彼を抱きしめ返し、フィオグラウスの心を満たしていく。
「やっと……やっとちゃんと、君に言えた」
そう言って破顔した後。
互いに涙でぐしゃぐしゃになって初めて交わした口付けを、彼の頬に添えたルルーシャの指──贈られた指輪から漏れる天蓋石の小さな光だけが、柔らかく照らしていた。




