第48話 目隠し鬼 2
隣の部屋を訪ねたルルーシャは、扉の前で眉を顰めた。
珍しいことに、普段きちんとしているフィオグラウスの部屋の扉が、僅かに開いているのだ。
「フィオグラウス様……?」
小さく扉を叩き、声を掛ける。
耳をすましても返事はおろか物音すらせず、不審に思ったルルーシャはゆっくり扉を開けて中に入ってみたが、そこに思い描いた彼の姿はなかった。
(どこに行かれたのかしら。……レナート殿下のところ?)
部屋に戻って待てばいい。
そう思ったが、きちんと閉められていなかった扉が彼らしくなくて妙に気になり、ルルーシャは上階へ行ってみることにした。
(上の廊下は灯りがついていないけれど……涙光石も持っているし……上にフィオグラウス様がいらっしゃるなら、大丈夫よね……?)
不安を抱きながらも、待っているアメリアのために勇気を出して階段へ向かう。
侯爵家は広く、廊下も長い。
四階のレナート達の部屋へ行くには、ルルーシャの部屋から一度東側へ少し戻り、階段を上がってもう一度西側へ進まねばならない。
三階の廊下も、明るいとは言えそれはルルーシャの部屋の前に限ったことで、一番近い階段からさらに奥の東側へ伸びる廊下は暗い。
(……何だか……視線を感じるようで怖いな)
誰もいるはずがないのに道の先に何かがいるような気がして、肩を震わせたルルーシャは、なるべくそちらを見ないように、そろりそろりと階段を上って行った。
四階の廊下は、やはり所々に月明かりが差し込むだけで薄暗い。
だがそれだけでなく、階段を上り切って数歩進んだところで、異様な空気を察したルルーシャは立ち止まった。
(扉が……開いてる)
暗くよくは見えないが、どう見ても一番奥のレナートの部屋の扉は開け放たれ、灯りもない。
(なんだろう……嫌な感じがする。ひとまず、一旦部屋に戻ろう)
ざわざわと騒ぐ胸を抑え、尻込みしたルルーシャが無意識に一歩後ずさった──その時。
(……あれ?)
キィ……と小さく音がした気がして、ハッとした彼女が目を凝らすと、奥から並ぶ王子とイアンの部屋のさらに手前──廊下の真ん中付近にあるこの日使っていないゲストルームの扉が開いている。
(誰か……いるの? フィオグラウス様……?)
恐る恐る、足を進めて扉を開ける。
暗い室内を照らすため、胸の高さまで僅かに灯りを上げ──目の前の存在に、ルルーシャは凍りついた。
「──っ!!」
予想もしていなかった突然の恐怖に、悲鳴は声にならず喉の中で消える。
身を守る為に強張って勢いよく自身に両手を寄せたせいで、ガラス容器を落としてしまい、高い音を立てて涙光石と割れたガラス片が床に散らばった。
分散されたせいで明るさが急激に弱まって、周囲が暗くなる。
ルルーシャの目は、部屋の中、闇の奥にいる存在に釘付けになり逸らすことができない。
全身から血の気が引き、呼吸は一気に乱れて上手く息が吸えず、視界が明滅し始めた。
石のように固まったルルーシャが見ている先、窓のそばで月明かりに照らされていたのは──。
(い……犬……!!)
正確には、それは間違いだ。
ルルーシャの目の前にいたのは、大きな白狼に姿を変えた──フィオグラウスだった。
(なぜ、ここにルルーシャが……!!)
危険な状況に部屋で待っているはずの彼女が現れたことで、一気に絶望したフィオグラウスが動けないのはもちろんだが、灯りを失い、彼の白狼の姿を知らないルルーシャも、顔色を失い恐怖に呑み込まれ、冷静な判断ができなくなっていた。
(犬……? どうして……嫌だ……怖い──怖い!!)
紫の瞳にじっと見つめられ、動くことができない。
ルルーシャは胸の前で握りしめていた両手の中、フィオグラウスに贈られた天蓋石の指輪を震える手で縋るように触り、極限の怯えに染まる瞳で狼を見つめたまま、無意識に掠れる声を漏らした。
「……フィ、オグラウス様……」
彼女にとって、それは姿の見えない恋人に助けを求め、名を呼んだだけ。
それは充分なほど、フィオグラウスにもわかっていた。
だが名を呼ばれた彼は、咄嗟にルルーシャの声に吸い寄せられるように反応し、前足を一歩、踏み出してしまっていた。
(まずい)
瞬く間に彼女の瞳の恐怖が色濃くなったのを感じ、フィオグラウスが自身の失敗に心を乱した時にはもう全てが遅かった。
「い……いや……来ないで……」
恐れに目隠しされたルルーシャは、絞り出すように言いながら、じり……と後ろへ後ずさる。
フィオグラウスは焦った。
虎に姿を変えたレナートは、まだ見つかっていない。
ルルーシャを今、一人にさせるわけにはいかない。
怖がらせてはいけない。
離れられてはいけない。
(ルルーシャ、お願いだ……!! 怖がらないで。君を守れるように、私から逃げないで!!)
悩んだ末、フィオグラウスは彼女に危害を加えるつもりがないことを示そうと、祈るようにゆっくりと後ろへ一歩下り、距離を取ろうとした。
だが、結果だけをみればそれは間違った選択だった。
「──いや!!」
彼が動く素振りを見せた瞬間、緊張が限界に達したルルーシャは、恐怖から逃れようとバッと身を翻し、暗い廊下へ走り出してしまった。
(ルルーシャ、待って……お願いだ、待ってくれ!!)
息ができない程の焦燥で押しつぶされそうになりながら、フィオグラウスは彼女の後を追い掛けた。
「来ないで……! いやだ、嫌だ助けて!! フィオグラウス様、助けて……!!」
錯乱し、泣きながら廊下を走るルルーシャの悲痛な声が、フィオグラウスの胸に刺さる。
「フィオグラウス様……!! フィオグラウス様!!」
暗闇に惑い、必死で己を探して叫ぶ愛しい彼女が、足をもつれさせ倒れ込んだ。
(ルルーシャ……!!)
追い付いたフィオグラウスが彼女を助けるため近付こうとしたが、寸前でピタと動きを止める。
目の前に迫る恐怖に立ち上がることができず、何とか体だけフィオグラウスに向け床にへたり込んだままのルルーシャが、顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのだ。
「来ないで……助けて……」
震える小さな肩を見て、距離を縮めることができない。
「助けて……フィオグラウス様……フィオグラウス様……!!」
胸の前で彼が贈った指輪を握りしめ絞り出すように祈る彼女に、フィオグラウスの胸は張り裂けそうだった。
(私のせいだ。……私のせいで、ルルーシャをこんなにも怖がらせている。私が……あの時──十年前に、ルルーシャを守れなかったせいで……!!)
どうすればいいのか。
どうすれば、彼女を怖がらせずに済むのか。
どうすれば、ルルーシャを守れるのか。
己の無力さに歯噛みしながら、ただただ自分を呼び続ける彼女を見つめることしかできない。
(ルルーシャ……)
心の内で泣きながら、愛しい彼女の名を呼んだ──その瞬間。
「──!!」
フィオグラウスはぶわと全身の毛が逆立ち、戦慄でどっと大きく心臓が鳴った。
床に座ったまま泣きじゃくるルルーシャの後ろ。
奥へ奥へと続く廊下の暗闇の中から這い伝わるように空気を揺らしたのは、低く喉を鳴らす──虎の声だった。




