第46話 塗り潰された心
フィオグラウス達と別れた後。
案内された王子のための部屋で、レナートとイアンは今後について軽く雑談を交わしていた。
上着を脱いでソファに身を投げ出し寝そべるレナートに、扉の前、難しい顔をしたイアンが言う。
「エドガー様を信じるのであれば、現状、あの送られてきた祝いの水が一番有力な証拠になると言うことですよね」
「そうだな。あれだけでは弱いが、あとは──ジャルジュ侯爵次第だ。こればかりは祈る他ない」
「嫌な賭けですね。もし負ければ、最悪我々だけでなく祖国も危うい。……胃が痛いですよ」
そう言って自身の角を触るイアンは普段より視線に落ち着きがなく、気怠げに天井を見つめたままのレナートも、顔色が悪い。
(何なんだ……この身の内から腐るような不快感は……)
妙な胸騒ぎを抱えながら、イアンはそれでも平静に努める。
暫く言葉を交わした後、大きくため息を吐いたレナートは、両手で顔を覆い、絞り出すように言った。
「はあ……駄目だ……アデラに会いたい」
「フィオたん達にあてられましたか? 第三王女殿下なら、明日になれば会えますよ」
レナートもフィオグラウスに劣らず、自身が選んだ伴侶であるアデラ王女を溺愛している。
だが彼が弱音を吐くように願いを溢すことは珍しく、イアンは思わず薄く笑んだが、その微笑みは一瞬で掻き消えた。
よく見れば、いつもは機嫌よく軽く返事のように揺れる虎の尾が、今はだらりと床に垂れぴくりとも動かない。
顔を覆ったままのレナートは、視線をこちらへ向けることなくうわごとのような呟きを繰り返した。
「そうか……そうだな。明日になれば……それで問題ない。そうだ……彼女に会いさえすれば……」
王子の様子に、イアンは思わず眉を顰めた。
「レナート、様……?」
声を掛け、側へ寄ろうと足を踏み出した瞬間、レナートがまるで沈むヘドロから逃れるようにゆらりと立ち上がる。
「駄目だ……」
俯いたまま落ちた悲痛な声音の呟きには、まるで獣が喉を鳴らす地鳴りにも似た低い音が重なって聞こえ、イアンは一気に血の気が引いた。
「レナート様!!」
駆け寄り顔を覗き込めば、レナートは焦点の合わない金の瞳から、はらはらと涙を流し美しい顔を絶望に歪めていた。
「駄目だ……イアン、頼む……!! アデラに会いたい……!! 今すぐ彼女に会いたい!!」
「レナート様、落ち着いて下さい!! 私の目を見て!!」
崩れ落ちようとする王子の両肩を支え声を掛けるが、懇願し泣くレナートは逆にイアンの腕を掴み返す。
「──っ!!」
焼けるような鋭い痛みが走り、咄嗟に腕に視線を向けたイアンは、驚愕の悲鳴を飲み込んだ。
(獣化している……!!)
見ればレナートの手はメキメキと大きさを増し虎の毛に覆われ始めており、鋭く伸びた太い爪が、服の上から深くイアンの肉を抉るように食い込んでいる。
「ぐ……う……れ、なーと様……」
吹き出すように血が伝う腕が熱く、みるみる額に脂汗が浮く。
「お願いだ!! アデラを……アデラを連れて来てくれ!! 消える……消えてしまう!! 俺に戻れない!!」
叫ぶが早いか、レナートの声は猛獣の唸り声に変わり、身体は一瞬で質量が増し勇壮な虎の姿に膨れ上がった。
現れた猛獣は、裂け始めた服を「邪魔だ」と言わんばかりに振り払いながら大きく勢いを付けて身を捩り、反動で太い縞の尾がテーブルに置かれたグラスや灯りを粉々にしながら薙ぎ倒す。
ガラスの割れる高い音の中、虎に変わってしまったレナートは、爪の刺さる腕の肉を削ぎながらイアンを床に叩きつけた。
「う、ぐ──!!」
背中に衝撃が走ると同時にドン、と床が揺れ、灯りの消えた部屋に薄く月明かりが差し込む。
顔を歪めて見上げると、イアンの真上には、倍以上の体格はあるであろう立派な虎が、虚な金眼を獰猛に光らせ、獲物を捕食しようと「グルルルル」と唸り声を響かせのし掛かり、彼を見下ろしていた。
生ぬるい息を吐きながら、目の前で鋭い牙のある口がゆっくりと開く。
イアンは腕を押さえ付ける虎の前足を押し返そうとしたが、その時、これまで胸に渦巻いていた不快感が彼の中で膨れ上がり、ぐわんと脳を揺らした。
(だ、めだ……)
猛烈な吐き気と眩暈が同時に襲い、はらわたを掻き混ぜるような悪寒が全身を駆け抜ける。
意識が真っ黒に塗りつぶされる感覚に侵食され、イアン自身も獣化の波に飲み込まれようとしていた。
(力が……入らない……!!)
爪がさらに食い込み、のし掛かられている重みで腕の骨自体が鈍く軋む。
頬にぶわと山羊の硬い黒の毛並みが現れては消え、瞬きの間に何度もそれを繰り返す。
獣化を必死に食い止め抵抗しようとするが、目の前のレナートに対する焦燥がさらに身の内の腐敗感を増殖させ、意識が闇に引っ張られ身体は脱力していく。
剣を掴むことも、獣の腕を押し除けることもできず、喉元には咆哮と共に鋭い牙が迫って来た。
「レナート様……!!」
もがきながら祈るように名を絞り出した。
その瞬間。
「──先生!!」
力強い声と同時に、部屋に飛び込んできたのはフィオグラウスだった。
姿が見えるや否や勢いのままレナートに体当たりし、なだれ込むように床を鳴らしながら縞模様の巨体を横倒しにする。
すぐさま虎はグルンと回転しながら起き上がり、至近距離でどっと跳躍してフィオグラウスに突進しながら、鋭い爪の光る太い前足を振り下ろした。
鞘のまま両手で横向きに掴んだ剣を眼前に掲げ、奥歯を食いしばったフィオグラウスは、レナートの一撃を何とか防ぐ。
「う、ぐ……せ、先生、大丈夫ですか!?」
グググと力で押し切ろうとする虎を何とか鞘で止めて向かい合い、ギリギリと睨み合い拮抗した状態で、床にぐったりと倒れたままのイアンに叫んだ。
だが、助けに来たフィオグラウスも──イアンと同様に獣化が進んでいた。
「先生、私も……獣化が抑えられません。ですが、先祖返りの私なら意識は保てる筈です……! 私がレナート様を何とかします。先生は応援を呼びに行って下さい!!」
彼の判断は正しい。
イアンはすぐさま侯爵家に事態を伝えに行かねばならない。
しかし、獣化に抗うだけで手一杯のイアンは、グシャリと顔を歪め耐えるばかりで、起き上がることすらできないのだ。
逼迫した状況に晒され、獣化への抵抗も限界に達したフィオグラウスが、ぶわりと毛を逆立て大きな白狼に姿を変える。
獣人の存在を知らぬ者が見れば山神だと錯覚する程、真っ白な毛並みは美しく月光を弾き神々しい。
膨れ上がった体躯は虎にも劣らぬ大きさで、澄んだ紫の瞳は、獣に変わった彼が正気のままであることを物語っていた。
(私が何とかするしかない……!!)
暗い部屋の中で睨み合う二頭は、両者が低く喉を鳴らし動かない。
フィオグラウスの裂けた服が、床に転がる剣の上に、はらりと落ちた──それを合図に、唸り声を上げたレナートが再び襲い掛かって来た。
どうにか相手を無力化させるため、飛び掛かってくる虎の喉に噛み付こうと下に入り込み口を開けた──その時。
「────」
二頭の耳に届いたそれは、遠くから聞こえる、ほんの微かな声。
ただの声ではない。
幼い子どもの──アメリアの泣き声だった。
(まずい……!!)
そう思った瞬間には、物凄い勢いで体を捻ったレナートの太い尾が、鞭のように風を切ってフィオグラウスを打ち倒していた。
(──!!)
体制を立て直した時にはすでに遅く、荒れ果てた部屋の中に主人である虎の姿はない。
開け放たれた扉とその向こうへ続く暗い廊下を睨みながら、焦る心のまま、白狼の姿のフィオグラウスは、獣に変わってしまったレナートの後を追いかけた。




