第44話 異変
侯爵家の西側四階にレナートとイアンがそれぞれ部屋を取り、そのすぐ階下、フィオグラウスとルルーシャにも二つ、並んで別々の客室が用意されている。
「どうせ一緒に寝るんだから、一部屋でいいだろう」と、二人を常に共に行動させようとしたエドガーに、「着替えとかお化粧とかあるんだから、一応部屋はそれぞれ必要よ!」とイレーネが主張したためだ。
案内を終え王子達と別れた後。
ルルーシャのために準備された部屋の前で、彼女を優しく見つめながら、フィオグラウスが言った。
「支度をしたら戻って来ますから、部屋で待っていて。ああ、でも眠ければ先に寝ていても──」
「いえ、起きて待っています。それに、私の方がきっと時間が掛かると思いますよ」
くすくすと笑ってルルーシャが言えば、フィオグラウスも同じように笑う。
「でもクロエは魔法を使っているみたいに手際がいいから。負けてしまうかも」
おどけてそう言えば、ルルーシャが身支度を手伝うために部屋の中で控えていたクロエをちらと振り返り、笑みを深めた。
「確かに、クロエは魔法を使えると思います。どちらが早いか勝負ですね」
「それも楽しそうですが、ゆっくりでいいですよ。もし……何かあったら、すぐに呼んでください」
「わかりました」
微笑んで頷くと、フィオグラウスがルルーシャを抱きしめた。
だが、就寝準備でほんの少し離れるだけというのに、軽い挨拶の仕草だと思ったその抱擁は今生の別れかのように長い。
「フィオグラウス、様……?」
なぜかじっとしたまま動かない彼の腕の中、パチパチと目を瞬かせ名を呼ぶと、ハッとしたフィオグラウスとの間にようやく隙間ができた。
「す……みません、長すぎましたね」
弱々しく笑った彼の瞳が、微かに固い。
しゅんと垂れた耳に、ルルーシャは思わずそっと触れた。
「疲れましたか? すぐに横になります?」
「いえ……少し眠いだけなので大丈夫です。すぐ戻って来ますので、部屋で待ってて下さいね」
フィオグラウスはそう言うと、ふわりと笑顔を作って彼女の頭を優しくひと撫でし「また後で」と目を細めて扉を閉める。
普段より儚げな表情が気になり、残されたルルーシャはクロエに向き直りながら自ら髪を纏めていたピンを外し始めた。
「クロエ、できるだけ急いで支度できる? フィオグラウス様、きっと凄くお疲れなんだと思うの。お待たせせずに、早くお休みになってほしいわ」
クロエは「お任せ下さい」と頼もしく返事をし、それはもう本当に魔法のような鮮やかさで、ルルーシャの寝支度を整えてくれた。
髪までしっかり洗ったのに、肩に降ろした長いそれも、すでに渇いて良い香りを漂わせふわふわだ。
幸い、まだフィオグラウスは来ておらず、彼を待たせずに済んだことにルルーシャはほっと胸を撫で下ろした。
「お嬢様、おやすみなさいませ」
「ありがとう。おやすみクロエ。また明日」
部屋に一人きりになり、寝台の縁に腰掛ける。
枕元には涙光石が詰まった持ち手付きのガラス容器が置かれ、部屋は明るい。
身支度の間その横に置いていた指輪に光が反射し、天蓋石の花が青く咲いて小さな星空を作っていた。
──もしも突然、暗闇があなたを包んでも。
指輪を渡してくれた時の言葉を思い出し、彼の気持ちが嬉しくて自然と目を細めてしまう。
(楽しかったな)
再び指輪を嵌めて小さな花を撫でると、幸せだったパーティーの興奮が蘇り、ルルーシャは立ち上がってくるりとその場でターンした。
フィオグラウスと踊った時の動きをなぞって軽くステップを踏むと、ゆったりとした足首まで伸びる寝衣の裾が、ふわりと揺れる。
(フィオグラウス様、早く戻って来ないかな)
深夜だというのに鼻歌まで口ずさみそうになり、ルルーシャは一人笑みを零して、彼の訪れを待っていた。
ルルーシャと別れ自身にあてがわれた隣の部屋へ入った瞬間、フィオグラウスはその場にしゃがみ込んだ。
(……体が重い……吐きそうだ)
彼女と離れた瞬間から、体の内に猛烈な不安が広がり吐き気がする。
(ルルーシャ……)
宴は無事に終わったというのに、酒が送られてきた以外に予想していた動きが何もなかったことで、逆にその不気味さが際立ち余計に焦燥は増していた。
(早くルルーシャのところに戻ろう。目の前に彼女がいないと、不安で気がおかしくなりそうだ)
絞り出すように息を吐き、顔を歪め立ち上がる。
急いで支度を済ませている間も、心が乱れ、ざらつきはどんどん濃くなっていく一方だ。
ようやく彼女の元へ行けると安堵し、フィオグラウスが部屋を出ようとした──その時。
(……何だ?)
フィオグラウスは不意にざわりと強い胸騒ぎがして、天井を見上げた。
それとほぼ同時に、パリンと何かが割れる音が微かに聞こえ、ドンと上階の床に重い何かが落ちたような鈍い振動が天井を鳴らす。
「──レナート様」
上階、ちょうど真上は主人であるレナートの部屋だ。
呟くが早いか、唇を引き結んだフィオグラウスは剣を掴んで部屋を飛び出した。




