第41話 高揚と沈殿
日が沈んだと同時に、祝宴は侯爵家当主であるエドガーの堂々とした挨拶から始まった。
天井の高いホールは、溢れんばかりの花々で飾られ、絵物語の楽園へ迷い込んだように煌びやかだ。
好意的な拍手が響く中、次いで前当主でもある父が祝いの言葉を述べて愛娘を紹介し、手を引かれたルルーシャも、社交の場に仲間入りする緊張と喜びを少し背伸びした貴族言葉で紡ぐと、美しいカーテシーを披露する。
流れ始めた音楽に合わせフロアの中央へ進み出た二人は、成人を祝う最初のダンスを踊りながら、小さく言葉を交わした。
「ルルーシャ、おめでとう。私は今日まで、君を守るだけで精一杯だったのに……本当に、あっという間だった。いつの間に、こんなに強く、輝かしい女性になっていたんだろうね。……でも忘れないで。父様も母様も、いつまでもルルーシャの味方だよ」
「ありがとう、お父様」
周囲を囲む貴族達にあたたかく見守られ、涙ぐむ父と最初の一曲を踊り切る。
父は普段から優しく穏やかだが、泣いている所は今まで一度も見たことがない。
繋いでいた手を離すことに何とも言えぬ心細さを感じたが、その気持ちを見透かしているように、交代で進み出たエドガーが力強くルルーシャの手を取った。
本来は家の当主である親と、婚約者、招待客の中で一番位が高い者──計三人と短いダンスを披露して乾杯の後に歓談へと移るのだが、早くから家督はエドガーに渡っているため、現当主である彼との一曲が加わっていた。
「なかなか上手くなったじゃないか。俺の靴を一度も踏まないなんて」
いつもの余裕そうな兄の笑みの中に彼女を慈しむ温もりを感じ、くるりとターンしたルルーシャは大人の女性らしく目を細めてみせた。
「エドガーお兄様も、もう私を引っ張って好き勝手にステップを踏まないんですね」
「そっちの方がお望みだったか?」
意地悪く片眉を上げたエドガーに、「もう!」とルルーシャが笑い曲が終わる。
中央で向かい合って互いに礼をし、エドガーは再び取ったルルーシャの手を、進み出てきたフィオグラウスに渡した。
「フィオ、尻尾揺れてるぞ」
すれ違いざま、笑いを噛み殺したエドガーに耳元で囁かれ、フィオグラウスが「仕方ないでしょう」と一瞬むくれる。
ちらと視線を向けると確かに白い尻尾は嬉しそうに揺れていて、ルルーシャは破顔した。
「ふふ……可愛い」
思わず呟けば、ほんのりと顔を朱に染めるフィオグラウスが恥ずかしそうに眉を下げる。
それと同時に、彼が重ねた手を引きグッと身を寄せ顔を近付けると、彼女の耳元に低い声で囁いた。
「ルルーシャ、可愛いのはあなたですよ」
「──っ」
反撃だとばかりにわざと艶のある息を混ぜて言われ、ルルーシャの全身に痺れが走る。
その間も優美な旋律は流れ続けており、ぼっと顔を赤くし固まりそうになる彼女を、ぴたりと寄り添うフィオグラウスが優しく導いた。
(距離は練習の時と一緒なのに……心臓が爆発しそう)
普段とは違う装いのフィオグラウスは、はっきり言って麗しすぎて見ていられない。
ドキドキと煩い鼓動を誤魔化すように視線を泳がせていると、フィオグラウスはくすくすと笑いながらルルーシャの顔を覗き込んできた。
「ルルーシャ、目を逸らさないで。今……あなたの瞳に映るのは、私だけがいい」
じっと見つめてくる紫の瞳が、甘い。
「わ……私だって……今は、私だけ見ていてほしい、です」
顔を真っ赤にしたルルーシャが精一杯そう言えば、「はあ」と息を吐いたフィオグラウスが、ターンするルルーシャをそのままふわりと高く持ち上げた。
「きゃぁ!」
練習にはなかった動きで、突然一気に視界が彼よりも高くなる。
だが浮遊感に目を丸くして小さく声を上げたのも一瞬で、ドレスは花開くように美しく広がり、フィオグラウスはステップを止めず、抱きしめるように優しくルルーシャを着地させた。
さらにくるりと大きく彼女を回して、優雅になびくドレスの裾で再びフロアに白い花が咲く。
周囲から「まあ……」とため息混じりの歓声が上がる中、フィオグラウスが囁いた。
「……ごめん、可愛すぎて……つい」
言葉とは裏腹に、その声と表情は悪びれた様子もなく幸せそのもので、うっとりとしている彼にルルーシャは眉を下げた。
「驚かされたのは私なのに、そ……そんなお顔で言われたら、怒れないじゃないですか。……ずるいわ」
少しだけ口を尖らせたルルーシャを見て、フィオグラウスの笑みがさらに深まる。
一曲分を踊り切り、二人の手が離れる直前。
フィオグラウスはその場で跪くと、ルルーシャの手の甲にそっと微かな口付けを落とし、そのまま視線を上げ、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「フィ、フィオグラウス様っ!」
感情を抑えられず、気持ちのまま練習にはなかったことばかりをする彼に、顔を赤くしたルルーシャが小さく狼狽えた声を出す。
跪く美しい狼獣人と可愛らしい令嬢の姿は、まるで姫に忠誠を誓う騎士の恋愛劇の一幕のようで、その場にいる人々は再び沸き立った。
最後に、招待されている貴族の中で最も身分の高い者──苦笑するレナートと、涙目で顔を真っ赤にしたままのルルーシャが踊り終わり、向かい合ってお辞儀をする。
全員の中心に立つレナートが、側によった給仕から二つのグラスを受け取り、片方をルルーシャに渡した。
精悍な虎の獣人が、親愛の籠った力強い金の瞳を彼女に向ける。
「シャルトレ侯爵家御令嬢、ルルーシャ殿。貴女のご成人を心より祝福し、平和を支える同志として、歓迎致します。──乾杯」
声と同時にグラスが掲げられ、上等な深い葡萄色がシャンデリアの光を透かして揺らめいた。
「ありがとうございます」
微笑んだルルーシャの言葉を合図に、その場の全員が配られたグラスを掲げ、同時に酒を口に含む。
喉から鼻に抜ける豊かな香りが、ルルーシャの中で、今までと全く違う世界へ踏み出した実感を強くした。
(心が、ふわふわする)
正式に一人前の貴族として認められ、緊張の糸が切れた彼女の手は、ここに来て僅かに喜びで震えた。
「それではシャルトレ嬢、どうぞ」
早々にグラスを空けたレナートが、ルルーシャへエスコートのための手を差し出す。
お披露目で最後に身分の高い者と踊るのは、乾杯の挨拶のためでもあるが、その後それぞれの貴族への橋渡しとして共に歓談へ移るためでもある。
「はい──」
事前の打ち合わせ通りに差し出された手を取ろうとすると、するりと二人の間に入った熱が、ルルーシャをレナートから遠ざけた。
「レナート様、お忘れですか? 打ち合わせ通り、彼女の隣に立つのは私です」
驚いたルルーシャが見上げると、そこに立っていたのは美しく微笑むフィオグラウスだった。
宙に浮いたルルーシャの手は彼に握られ、まるでレナートから隠すように、もう片方の手もしっかりと彼女の肩を抱いている。
それまでの王族らしい悠然とした風格はどこへやら、吹き出したレナートは軽く両手をあげて降参の意を示した。
「ぶっくく……冗談だよ。怒るな怒るな。打ち合わせ通り、シャルトレ嬢はお前がエスコートすればいい。ほら、行くぞ」
そう言って、レナートは笑いながら上位貴族の方へ歩いていく。
目を丸くしたルルーシャは遠く後ろに立つ父や兄とフィオグラウスの顔に視線を往復させ、疑問符の浮かぶ顔で思ったままに尋ねた。
「え……これ、いいんですか? ……慣例を無視しています、けど……」
「いいんです、これで。──さあ、行きましょうか」
困惑している彼女に、フィオグラウスはニコニコと上機嫌な笑みを向けると、心から幸せそうに、寄り添うルルーシャの手を引いた。




