第34話 初恋 3
部屋の隅で隠れるように手を繋いで座り、二人はたくさんの言葉を交わした。
「ねえ、フィオ。怖くなくなるように、好きなものの話をしましょう」
そう提案してきたのは、ルルーシャだった。
不安な気持ちを塗り潰すように、彼女は犯人や部屋の状況、自分達がどうなってしまうのかについては、触れようとしない。
それがわかっていたフィオグラウスも、その話題は避けて過ごした。
楽しいこと。
好きなこと。
思い出の場所。
家族のこと。
そんなことばかりを、絶えず二人で話し続けた。
「フィオには、『こんやくしゃ』っている?」
思ってもいないことを尋ねられ、フィオグラウスは目を瞬かせた。
「婚約者? いないよ」
「本当!?」
ルルーシャはパッと表情を明るくすると、繋いでいた彼の手を両手で握り直す。
「じゃあ……じゃあ大きくなったら、私と結婚しましょう! フィオはエドガーお兄様みたいに凄く優しいし、かっこいいし、ふわふわだし……大好きなの!」
「だ……いすき……」
どっと大きく心臓が高鳴って、驚きに目を見開いていると、ルルーシャがダメ押しとばかりにフィオグラウスに抱きついた。
「フィオ、大好き。ずっと私と一緒にいて。……だめ?」
胸の中で尋ねられ、フィオグラウスはそっと彼女を抱きしめ返す。
ふわふわの髪に鼻を埋め、向けられた好意に眩暈がした。
「……だめじゃない。私も……ルルーシャのこと、大好きだよ」
「嬉しい! じゃあ約束よ。ずっと一緒にいてね。大きくなったら、私と結婚してね」
見上げてくる彼女の、ふにゃりとした笑顔が可愛くて。
「うん……約束する」
フィオグラウスは片手でそっとチョコレート色の前髪をよけ、その丸い額にキスをした。
(ルルーシャがどれだけ本気で言っていたのか……今となっては、わからない。でも……でも、それでも私は──)
夢を見ている自分の感情と呼応するように、記憶の中の自分が、彼女を包む腕に力を込める。
絶望的な状況にも関わらず、フィオグラウスは隣でルルーシャが笑っていることで、心は驚くほどに満たされていた。
「──ルルーシャ、静かに」
一日に数回、フィオグラウスはルルーシャの話をひそめた声で遮った。
しゃがれ声の男は、時たま部屋の様子を見にやってくる。
その足音が聞こえ、その度に彼女に警戒を促した。
強張るルルーシャの表情に胸を痛めながら、サッと自らの意思で獣化し白い狼に姿を変える。
「フィオ……」
泣きそうな声で名を呼び両腕を広げるルルーシャが、素早く身を預けたフィオグラウスをギュッと抱きしめた。
(ルルーシャ……泣かないで。私が一緒にいるから)
慰めるように彼女の頬に顔を擦り寄せ、床の上の小さな足を尻尾で優しく撫でる。
部屋に入ってきた男は、ぐったりと横たわる獣化した者達を一人一人覗き込みながら、薄い笑みを浮かべて馬鹿にするように呟いた。
「……ふん。この様子じゃ、獣どももそろそろだな」
男は面倒だからなのか、ルルーシャが抱きついているフィオグラウスの様子は見に来なかった。
そのおかげで、彼の意識がはっきりとしており、半獣化に戻れるまでになっていることは気付かれていなかった。
「……フィオ」
耳元で、ルルーシャがか細い声で囁く。
「大好きだよ、フィオ。ずっと一緒にいるよ。私が守ってあげるからね」
震えているのは彼女なのに、彼が狼の姿になっている時、ルルーシャはふわふわの体を抱きしめながら、必ずそう言って励ましてくれた。
(せめて彼女だけでも、助けたい)
記憶の中の自分はそう思っていたが、窓には鉄格子があり、扉にも鍵が掛かっている。
一度だけ「隙をついて逃げないか」と言ったフィオグラウスを、ルルーシャが止めた。
「部屋に入ってくる人の他に、もう一人いるの。凄く怒ってて、怖い人なの」
「もう一人?」
フィオグラウスは、部屋の様子を見に来るしゃがれ声の男しか出会っていない。
話を聞けば、ルルーシャが攫われて来た日に、彼が狼の姿のまま意識も朦朧としていた時にいたらしい。
結局そのもう一人の男が現れることはなかったが、外に他にも仲間がいた場合を考え、ルルーシャを万が一更なる危険に晒すことを想像すると、部屋から出る選択ができなかった。
そうして、ルルーシャが連れて来られてから三日が経った。
昼に水を渡され、部屋にいる全員がそれを飲んだ。
後からわかったが、その水には睡眠薬が入っており、次にフィオグラウスが目を覚ました時、薄暗い部屋の中には、夕暮れの朱色の光が深く窓から差し込んで来ていた。
(……何かがおかしい)
起きてすぐ、彼は得体の知れない違和感を感じた。
ざわざわと心が騒ぎ、寄り添うように眠っていたルルーシャを揺り起こす。
「ルルーシャ……ルルーシャ、起きて」
「ん……フィオ……?」
瞼をこすり返事をした彼女にホッとしたのと同時に、フィオグラウスは気付いた。
「鎖が──」
そっと触れた自分の首には、鎖がない。
ルルーシャの手からも枷が外され、ただ近くの床に放り投げられている。
サッと部屋中の他の獣人達に視線を走らせると、皆同じように鎖が外れていた。
「ルルーシャ」
ゾワリと全身を悪寒が駆け巡り、青ざめたフィオグラウスは急いで彼女を立たせ、洋服箪笥の方へと引っ張った。
「フィオ? どうしたの? 痛いよ」
きつく腕を引かれ、困惑したルルーシャが怯えた声で尋ねてくる。
フィオグラウスはそれに返事もせず、彼女を大きな空の洋服箪笥に押し込んだ。
「どうしたの!? やだよ、フィオ! 出して!! 出してよ!!」
ルルーシャの声を聞きながら、まるで身体全てが大きな心臓に変わってしまったかのように鼓動が重く響き、焦りと恐れで手が震える。
(早く……早くしないと……!!)
彼女が内側から叩く扉を必死で押さえながら、床に転がっていた鎖を掴み、開く事がないように取っ手をぐるぐる巻きにして固く閉ざす。
(せめて、ルルーシャだけでも……!!)
泣きそうになりながらルルーシャを閉じ込めたフィオグラウスの背で、「グルルル……」と低い猛獣の唸り声がした。
恐怖と緊張で荒くなる呼吸を抑え、フィオグラウスはドンドンと扉を鳴らして叫ぶルルーシャに、できる限りの優しい声で言った。
「大丈夫だよ、ルルーシャ。絶対……君を守るから」
見えない愛しい少女に微笑むと、フィオグラウスは自らの意思で獣化し、真っ白な狼の姿になった。
身体を包んでいた布をバサリと床に落とし、唸り声の方へと振り返る。
部屋の中は、地獄としか言いようがなかった。
獣化から戻れず獣の姿になったままの同胞達は、何故か全員が同時に理性を失い、周囲を取り囲むように四つ足で立つ瞳孔の開いた彼らは、その爛々と光る瞳で、向かい立つフィオグラウスではなく、洋服箪笥を──その中にいる、ルルーシャを見ていた。
(狙っているんだ……この中で、一番弱い彼女を)
フィオグラウスがゴクリと喉を鳴らした瞬間、一頭の黒豹が唸り声を上げながらダッと床を蹴り、彼に向かって飛び掛かった。
それを合図に、他の獣達も一斉に吠えながら突進してくる。
「フィオ!! 出して!! お願い、ここから出して!!」
後ろからルルーシャの声がして、フィオグラウスは彼女を失うかも知れないという恐怖を、立ち向かう力に変え、飛び掛かってくる獣達の喉に噛みついた。
(ルルーシャは絶対死なせない!! 傷一つだって付けさせない!!)
遠吠えにも似た咆哮が部屋に響き、ぶつかる床や壁が軋んで大きく鳴る。
牙や爪が彼の肉を捉え、流れる血で白い毛はぬるりと張り付き、燃えるような痛みが走った。
「殺さないで!! お願い、殺さないで!! フィオを殺さないで!!」
ルルーシャの叫び声が、遠くに聞こえる。
「フィオ!! もうやめて!! 一緒にいてよ!! 約束したじゃない!!」
急激に日が沈んでいき、夜が来た。
フィオグラウスが退かないと感じた同胞達は、彼を襲う傍ら、互いにも牙を向け始めた。
唸り声。
舞い上がる煙る埃。
血の匂い。
どれだけ時間が経ったのか。
自分以外の獣人達全員が血溜まりに倒れたのを見届けたフィオグラウスは、そのまま自身もその場に崩れ落ちた。
「フィオ!! やだよ、フィオ!! やだ!! 死なないで!! フィオ!!」
喉が潰れても叫び続けているルルーシャの声を聞きながら、もう重い瞼に抗うことすらできなかった。
(ルルーシャ……大好きだよ。怖い思いをさせて、ごめん。最後まで一緒にいられなくて……君を救えなくて……本当にごめん)
狼の姿のまま、ぴくりとも動くことができず、そのうち彼女の声もしなくなって──。
(ごめん、ルルーシャ)
やがてとうとうフィオグラウスが意識を手放す、直前。
力強い腕に抱き抱えられ、大きな声が降ってきた。
「おい、大丈夫か!? 君が妹を守ってくれたのか!? 息をしろ!! 絶対助けてやるから、死ぬな!!」
薄らと開けた視界に最後に映ったのは、ルルーシャとよく似た紅茶色の瞳──彼女を救出に来た、エドガーだった。




