第33話 初恋 2
当時十一歳だったフィオグラウスは、家族で出かけた劇場で誘拐された。
入り口で知人に出会った家族と離れ、一人先に席へ向かう途中。
偶然、人気のない通路で見知らぬ子どもを攫おうとしている男と出くわし、咄嗟にその子どもを助けて逃した代わりに、彼が連れ去られた。
(助けが来なかったのも当然だ。まさかレオドニル国を離れ、海を挟んだキフェール国へ連れて来られているとは、自分でも想像すらしていなかったんだから)
夢の中、埃っぽい部屋の床にしゃがみ込むルルーシャに抱きしめられながら、フィオグラウスは心の内でため息を吐いた。
彼女と初めて会った時点で、フィオグラウスがこの屋敷に連れて来られてから、すでに二週間以上が経過していた。
まともな食事はもちろん、水すら殆ど与えられなかった。
極度の不安からなのか、空腹や脱水のせいなのか、集められた者達は半獣化と獣化を頻繁に繰り返しぐったりとしていて、最終的に全員が獣化し元に戻れなくなっていた。
そしてそれは、フィオグラウスも同じだった。
「わんちゃん、お腹……痛い? 大丈夫?」
心配そうに尋ねられ、言葉を返せない代わりに、「大丈夫だよ」と伝えるため泣いている彼女の涙に優しく鼻を寄せる。
ルルーシャがこの部屋に連れて来られる前日。
獣化したハイエナの獣人が錯乱して一度酷く暴れ、フィオグラウスは脇腹を噛まれ怪我をしていた。
(噛まれたのは仕方がない。あの場で一番弱かったのは、子どもだった私だ。むしろルルーシャがいない時で、本当に良かった)
獣人は精神的な負荷や病気で意図せず獣化すると、狩猟本能が強烈に働いて攻撃性が増し、その場にいる一番弱い者に牙を向けることがある。
事実フィオグラウスは怪我を負い、誘拐犯のしゃがれ声の男によって、応急処置のつもりなのかシーツのような布でただ雑に体を巻かれただけの状態で、そこにはじわりと血が滲んでいた。
「さっき怖い人が来たけど、わんちゃんには近づかなかったよ。また来ても、私が守ってあげるからね。だから大丈夫だよ。怖くないよ」
ルルーシャはそう言って一晩中、フィオグラウスを労るように、柔らかな彼の毛並みを撫で続けた。
夢の世界の時間は急速に進み、朝日が部屋に差し込んだ。
いつの間にか眠ってしまっていたルルーシャが、その明るさで身じろぎし薄く目を開ける。
フィオグラウスは、彼の膝を枕にしていた彼女に、小さく、できるだけ穏やかに声を掛けた。
「……おはよう」
「──え?」
まだ微睡みながら見上げてくるルルーシャの目が、次第にゆっくりと驚愕で見開かれる。
血が染みた布で身を包み座るフィオグラウスは、絵物語から抜け出たような麗しい少年の姿で、頭の上には三角の白い耳がピンと立ち、布の下からは埃で汚れた素足とふわふわのしっぽの先が覗いている。
誘拐されてから久方ぶりに意識がはっきりとし、彼は狼ではなく半獣化の姿に戻ることができていた。
(ルルーシャに出会えたのは、本当に幸運だった。身を腐らせるような不安感が一気に治まったのは、きっと一晩中、声を掛けて撫でてくれたおかげだ。何度思い返しても、奇跡としか言いようがない)
フィオグラウスは先祖返りの白狼だ。
普通の獣人よりも精神力が強く、子どもとはいえ、誘拐されたことで急激に揺らぐような心は持ち合わせていない。
だが攫われてからルルーシャに会うまでの期間、彼の内には例えようのない不安が常に渦巻き、なぜか獣化から戻れなくなってしまっていた。
獣人の精神の安定は、他者との触れ合いに大きく左右されるのが常識だ。
異常な状況下で、恋に落ちるほど好感を持てる存在に出会えた奇跡を噛み締めていると、ルルーシャの瞳に恐怖や嫌悪がないことにホッとした過去の自分が、おずおずと名乗った。
「君のおかげで、この姿に戻れたんだ。励ましてくれて……撫でてくれて、本当にありがとう」
そこまで言うと、目をまん丸にして膝を突き合わせ床に座るルルーシャが、フィオグラウスの首から伸びる鎖が自分の手の枷と繋がっており、耳と尻尾、それから美しい紫の瞳に確かに見覚えがあることに気付き、息を呑んだ。
「もしかして──わんちゃんなの?」
キラキラと輝く紅茶色の瞳にじっと見つめられ、フィオグラウスは僅かに顔を赤くして答えた。
「そう。私の名前は──フィオだよ。ねえ、君の名前を教えて」
獣ばかりの中に突然閉じ込められた彼女は、恐ろしい空間で人に出会えたことで緊張の糸が切れたのだろう。
丸い瞳から、ボロと大粒の涙が溢れる。
それでも必死に笑顔を作りながら、ルルーシャは弾かれたようにがばりとフィオグラウスに抱きついた。
「私はルルーシャよ。ねえ、フィオはいつからここにいるの? 怪我は痛くない? あの怖い人が誰か知ってる? 私……私何もわからなくて……。でも、怖い人が来たら、また私が絶対守ってあげるからね! だから怖くないよ! 大丈夫だよ!」
胸に飛び込んできた温もりにギョッとして狼狽えながらも、フィオグラウスは震えながら気丈に振る舞う小さな肩をそっと抱きしめる。
(ルルーシャ……君が救ってくれたから、私は今生きているんだ)
記憶の中の愛しい人を腕の中に感じながら、まだ覚めぬこの夢の先を思うだけで、彼の心は千切れそうなほどに痛かった。




