第32話 初恋 1
(ああ……最悪だ)
ぼんやりと意識を浮上させながら、フィオグラウスは思った。
(また、この夢だ)
霞んだ自分の視界がやけに低く、古く薄暗い部屋の外からは、激しい雨音が聞こえている。
フィオグラウスがいるのは、十年前に閉じ込められ、忌々しい出来事と幸福な時間を同時に経験した──あの部屋だった。
首から下がる長い鎖の重さを煩わしく感じながら、自分を抱きしめる温かな存在に、どうしようもない愛しさが湧く。
(君と、初めて出会った日だ)
寄り添って震えている温もりへ視線を向け、今すぐに慰め抱きしめ返したいのに、視界は固定されたままだ。
意識だけがはっきりとし、自由に話すことも動くこともできず、すでに知っている未来を変えることも叶わない。
ただ己の記憶をなぞっているだけの何百回と繰り返し見たその夢に、彼はただただ絶望していた。
(私は……また君を救えないのか)
鈍い痛みが胸を刺すのと同時に、記憶の中の自分が小さく呻いて身体を震わせる。
その動きを感じ取り、きつく寄り添っていた存在がはっと息を呑んでフィオグラウスからゆるく体を離すと、薄く開けた彼の目を、丸い紅茶色の瞳が心配そうに覗き込んで来た。
「わんちゃん……わんちゃん、起きたの?」
暗がりの中、恐る恐る尋ねてきたのは、ふわふわのチョコレート色の髪に、優しげな面差しをした丸い頬の幼い少女──ルルーシャだった。
(ルルーシャ……)
呼びかけは言葉にならず、代わりにか細く高い獣の鳴き声が漏れる。
それもそのはずだ。
この時、フィオグラウスは獣化から戻ることができず狼の姿になっていた。
ほっとした息を吐いたルルーシャが、真っ青な顔で震えながらも、無理やり可愛らしくニコリと笑った。
「大丈夫だよ」
間近で囁く彼女の穏やかな微笑みに、フィオグラウスの視線は釘付けになった。
白い狼になっている彼を抱きしめながら、優しくその頭をルルーシャが撫でる。
「わんちゃん、大丈夫だよ、怖くないよ。私が守ってあげるからね」
ギュッと彼女の腕の温もりに閉じ込められ、花のような柔らかな香りがフィオグラウスを包んだ。
自分も怖いはずなのに、彼を安心させようと、彼女の小さな手が何度も何度も、柔らかな毛並みの首筋を滑る。
心地よさで再び目を閉じると、大人になったフィオグラウスの意識と、記憶の中の自分が混ざっていった。
「わんちゃん……私が守るから、逃げないで。ずっと私のそばにいて」
耳元の白い毛に顔を埋め、絞り出された呟き。
それに応えるように、フィオグラウスは思うように動かない体を、小さな彼女に寄せた。
これが彼とルルーシャの出会いであり、一目惚れで──そして初恋だった。




