第31話 星空に溶ける熱
あの後、二人は食堂へは行かず、ルルーシャの部屋で一緒に軽く夕食を済ませた。
ルルーシャが寝台の上で枕を背もたれにして上体を起こし、隣に寄せた椅子に座るフィオグラウスと穏やかに談笑していると、会話の切れ目で、彼が徐ろに彼女の頭をふわりと撫でた。
「──就寝の支度をして、先に隣の部屋で待っています」
するりと髪を滑った指が、髪先からゆっくり離れるのと同時に彼が立ち上がり、ルルーシャの鼓動は僅かに速さを増した。
彼の言う『隣の部屋』とは、主寝室──つまり、まだ一度も使っていない二人の寝室を指している。
見上げれば、紫の瞳は彼女に向かって愛おしげに細められており、そこにはルルーシャが身を強張らせてしまうような獰猛な熱はない。
だがそれでも、気持ちが落ち着いて来た彼女の心には、動揺が広がり始めていた。
(や……やましい事なんて何もないわ。ただ私がうなされないように……うなされても怖くないように側にいて下さるだけ。……うん、そう! それだけなんだから!!)
彼が善意で申し出てくれたことは、充分にわかっている。
しかし、いざこれから家族ではない男性と寝台を共にすると思うと、どうしても意識してしまい、赤くなってしまう。
(うなされるどころか……ドキドキしすぎて眠れないんじゃ……)
そう思いながら、ぎこちなく「わかりました」と小さく返事をすると、フィオグラウスはクロエを呼んでルルーシャを託した。
「またあとで」
穏やかにそう言って、もう一度彼女の頭を優しくひと撫でし、彼は部屋を出て行った。
主寝室はルルーシャとフィオグラウスの部屋の間にあり、廊下側の扉を開けると、まず侍女や従者が細々とした用事のために入室を許されている小さな『次の間』がある。
奥にある寝室へは、そこを通って行くこともできるが、それぞれの私室からも直接繋がっている。
就寝の準備を済ませ、足首までゆったりと裾が伸びるワンピースのような淡い空色の寝衣に着替えたルルーシャは、自室の中、寝室へ繋がるその扉の前で一人、深呼吸をした。
(一緒に寝ることばかりに気を取られていたけど……そもそも、明るいままでフィオグラウス様は眠れるのかしら。やっぱりご迷惑かも……)
心配で俯く彼女が持っているのは、取手付きのランタンに似た、丸みのあるガラスの容器。
明るく光るその中に入っているのは、蝋燭の火ではなく、大きな飴玉ほどのたくさんの石だ。
澄んだ水を固めたような雫型のその石は『涙光石』と呼ばれる貴重なもので、太陽の光を蓄え、日光を浴びた時間と同じ長さだけ、暗い場所で光る性質がある。
一つだけではほのかに石の周りを照らすだけだが、両手一杯分に集めた石達は、夜でも部屋を明け方ほどの薄い明るさにしてくれる。
暗闇を恐れるルルーシャのために、十年をかけて両親とエドガーがコツコツと方々から掻き集めてくれたものだった。
(悩んでいても仕方ないわ。フィオグラウス様は……私が暗闇が怖いのもわかっていらっしゃるもの。怖いことは何もしない、と……仰って下さったのを信じるだけよ)
ギュッと瞳を閉じ、扉を叩く。
コンコンという音が思ったよりも大きくしんとした自室に響き、心臓がドキドキと鳴って胸が痛い。
「る、ルルーシャです。入りますね」
声の震えを抑えながら扉を開けると、ゆったりとした寝巻き姿のフィオグラウスが出迎えてくれた。
「はい。どうぞ中へ」
急いで支度をして待っていてくれたのだろう。
少ししっとりとしている髪に、ドキリと大きく胸が高鳴り、息を詰めてしまう。
緊張が伝わったのか、フィオグラウスはふっと眉を下げ柔らかく笑った。
優しく寝室へ引き入れられ、背でパタンと静かに扉が閉まる。
ルルーシャが思わず身を固くすると、フィオグラウスは彼女の手をとったまま、涙光石の入った容器を受け取った。
「この部屋に入るのは、初めてですよね」
「は、はい」
扉の前から動こうとしない彼の横で返事をしつつ、ルルーシャは寝室の中に視線を巡らせた。
どこかまだ自分には遠く大人の世界だと感じていたその部屋は、淡い若葉色と白を基調にしており、足元には精緻な蔓草と花模様が美しい絨毯が敷かれ、意外にも春の森の中を思わせる優しい印象だった。
繊細なレースの天蓋が垂れる広い寝台とソファーセットが置かれ、カーテンが下ろされた窓際には可愛らしい猫脚の書物机もあり、花が飾られている。
それぞれの家具の近くに点々と置かれた灯りのおかげで、想像よりも部屋は明るかった。
ゆっくり部屋を眺めることができたおかげで、ほっと肩の力が抜けてきたルルーシャは、それぞれの灯りの横に、蓮に似た形の、茎のない黒い花が置かれていることに気が付いた。
(あれは──?)
一番近く、ソファーセットのローテーブルに置かれた、手のひら程の大きさのそれを見つめていると、フィオグラウスが言った。
「あの……贈り物があるんです」
「贈り物?」
視線を向けると、期待と不安が混じる彼の瞳と目が合った。
頭の上では、緊張しているのか三角の耳がピンと立っている。
フィオグラウスは繋いでいた手を引き、ルルーシャをソファーに座らせた。
「手を出して」
隣に腰掛けた彼に手を差し出すと、ローテーブルに置かれていた黒い花のようなそれを、フィオグラウスがそっと乗せる。
触れてみてわかったが、固く少し重みのあるそれは、花ではなく石だった。
「これは……?」
「レオドニル国にある『天蓋石』という鉱石です。結晶は最初から花のような形をしていて、古くから妖精の寝床に天蓋を作る石と言われています」
「妖精の? 石の下で眠るということですか?」
妖精はおとぎ話にしかいない空想上の生き物だが、ルルーシャも子どもの頃はその存在を信じていたし、探し回ったことだってある。
可愛らしい名前の由来に微笑むと、フィオグラウスが同じように目を細めた。
「石が天蓋になるわけではありません。ルルーシャ……この一つだけ、灯りを消してもいいですか?」
一つ消してこの一角だけ少し暗くなったとしても、部屋の中はまだ充分に明るい。
ルルーシャがこくりと頷くと、フィオグラウスはテーブルに置かれた灯りを消し、ガラス容器の中から涙光石を一つ手に取った。
「これを、天蓋石の中心に置いてみて下さい」
手渡されたルルーシャは、意図がわからないまま言われた通りにほんのりと光る石を、手の上の黒い花の中心に置いた。
その瞬間──。
「わ……」
ルルーシャは思わず感嘆の声を上げ、目を瞬かせた。
真っ黒だった天蓋石が、涙光石が触れた途端、その光が花弁のような石の間を透過して複雑に屈折し合い、黒い花は金粉を閉じ込めた深い海のような輝く石に姿を変えたのだ。
淡い光を巡らせ美しく光る青い花を見つめていると、フィオグラウスが言った。
「ルルーシャ、天井を見て」
言われるままに顔を上げると、天井には石から反射した濃い青と金が映っている。
「すごい……ここだけ星空ができたみたいです!!」
瞳をキラキラさせながら興奮の声をあげるルルーシャに、フィオグラウスがおずおずと尋ねた。
「妖精の光の天蓋です。これをルルーシャに差し上げたくて……気に入って頂けましたか?」
「はい、もちろんです! とっても素敵……フィオグラウス様、ありがとうございます」
花が綻ぶように微笑む彼女に、フィオグラウスはほっと安堵の息を吐いた。
「喜んで頂けてよかったです。本当はもっと早くお見せしたかったんですが……涙光石の光が普段よりも分散して暗くなってしまうので、私が側にいられる時にと思っていたら、お贈りするのが遅くなってしまいました。──よければ、他の天蓋石も同じようにしてみますか?」
「ええ、ぜひ!」
ローテーブルに煌めく天蓋石をそっと置き、二人は手を繋いで、一つずつ灯りを消しながら部屋のあちこちに置かれた天蓋石に光を宿して行く。
点々と置かれたほんのりと光る青い花が淡く部屋を照らし、天井には金の星が散る幻想的な夜空が広がった。
最後に、寝台の枕元の小さな棚に置かれた天蓋石を灯し終わると、フィオグラウスがルルーシャを引き寄せ、そっと抱きしめた。
「……怖くはないですか?」
相変わらずルルーシャの胸は高鳴っているが、部屋を訪れた時の強張るような緊張はもうない。
気遣うような彼の声音に、心がじんわりと温かくなる。
「はい。普段より少し暗いですが、綺麗すぎて怖くありません。大丈夫です」
「──私は?」
頭の上から囁く穏やかな低い声が、僅かに強張った。
「私のことは……怖くないですか?」
見上げると、薄明かりに照らされた麗しい顔には、緊張が浮かんでいる。
ルルーシャは体の奥から愛しさが込み上げ、手を伸ばして、しゅんと垂れたフィオグラウスの白い耳を撫でた。
(優しくて……可愛い人)
柔らかな手触りにうっとりしながら、紫の瞳を見る。
彼の背後で、尻尾がパタパタと揺れている気配がして、思わず笑みがこぼれた。
「怖くないです。優しいフィオグラウス様のこと……ちゃんと見えました。だから……だから、もう怖くないです」
彼の腕の中でふにゃりと頬を染めて微笑むと、泣きそうな顔をしたフィオグラウスが、それを隠すように彼女をギュッと抱きしめた。
「──ルルーシャ、大好きです」
チョコレート色の髪にくぐもった声が小さく響いたかと思うと、ふわりと体が浮き、丁寧に寝台に降ろされる。
口元まで覆う程、閉じ込めるように布団をかけられ、その中、ぎし……と寝台を軋ませながらすぐ隣にフィオグラウスが横になった。
「近づいても──いいですか?」
「は……はい」
彼の方に体を向け、枕に頬をつけたままこくりと頷くと、フィオグラウスが体を寄せ、膝が触れる程に距離が詰まる。
包まる布団の中に向かい合う二人の熱が溶け、ルルーシャの心臓はどくどくと大きく鳴り、彼から視線を逸らすことができない。
フィオグラウスは彼女の片手に指を絡ませ、そのまま彼の頬に引き寄せた。
「お願いです。ルルーシャ……私を撫でて。ご褒美、下さい」
息がかかる距離でねだられ、繋いでいた手をふわふわの耳に誘われれば、望む通りに優しく撫でるしかない。
(あったかい……)
最初はドキドキと甘やかな緊張だけが心に居座っていたが、フィオグラウスのぬくもりをすぐ側に感じ柔らかな手触りを撫で続けていると、不思議なことに、次第に懐かしいような心地よい安堵が広がってくる。
「眠るどころではないかも」と思っていたのが嘘のように、ルルーシャの瞼は重くなっていった。
「──おやすみ、ルルーシャ」
天井いっぱいに淡く光る星空の下で、その夜、二人は同じ夢を見た。




