第30話 ご褒美を下さい
(ルルーシャは……限界が来ている)
腕の中で静かに泣くルルーシャの温もりを感じながら、フィオグラスは思った。
観覧席で彼女が倒れてから数刻が過ぎ、窓の外、空からは夕焼けも逃げ始め雲は朱から薄暗い灰色に変わろうとしている。
ルルーシャが倒れた時、グルベアが「すぐに城の医局へ運びましょう」と言ったが、ジャルジュは「兄君に判断を仰いでは?」とエドガーを呼び付けた。
駆け付けたエドガーはサッと全員に視線を巡らせ「残りの試合は他の騎士で編成を組み直すから、お前達はもう帰れ」と言うと、フィオグラウス達を追い立てるように会場から立ち去らせた。
そのため彼らは、合同訓練の終わりを待たず、先に屋敷に戻って来ていた。
(気を失ったのは、剣に驚いたからじゃない。きっとあの時、事件を思い出すような何かがあったんだ。だからエドガー様は、城の中で休ませるのは危険だと判断して私達を帰らせた。何が……一体何が君の心に触れたんだ)
彼女が目を覚ましてからずっと抱きしめているその小さな肩は、頼りなさげに震えている。
フィオグラウスは沈黙したまま、麗しい顔を苦悶に歪めてルルーシャの髪に鼻を埋めた。
彼女の花のような優しい香りが肺に流れ込み、こんな時ですら喜びを感じてしまう自分に嫌悪にも似た怒りが湧く。
(私は……ルルーシャを泣かせてばかりだ。再会してからずっと、無理をさせて苦しませて、怖がらせて。……泣かせたくなんて……苦しませたくなんて、ないのに)
きつく目を閉じ、ルルーシャに気づかれないよう、静かに深く息を吐いた。
(……どうすれば)
ようやく泣き止み落ち着いてきた彼女は、いまだに腕の中でじっとしている。
それがどうしようもなく愛おしくて、胸が軋んだ。
(どうすれば、君を苦しみから救えるんだろう)
ふと外を見れば、日が沈みかけ、空は暗くなってきている。
(……もうすぐ、夜が来る)
気付いた途端、抱きしめる彼女を暗闇が奪いにくるような気がして、ざわりと心に不安が広がった。
(このまま離れれば、きっとルルーシャは、またうなされる。また……一人で泣かせてしまう)
フィオグラウスはもう一度、きつく目を閉じる。
観念したように力を抜いて再び瞼を開け、ふわりとしたチョコレート色の髪を撫でると、彼女の耳元で、できる限りの優しい声で言った。
「ルルーシャ……私に、ご褒美をくれませんか」
「……ごほうび、ですか?」
僅かに腕の力を緩めると、未だ瞳を潤ませているルルーシャがそろそろと顔を上げ、不思議そうに見つめてくる。
(怖い夢なんて、もう見てほしくない)
赤くなった目尻と、そこから頬へ伝う涙の跡をそっと親指で拭ってあげながら、彼女が頷きやすいように、言葉を選びながら慎重に言った。
「今日の合同訓練……どうでしたか?」
「えっと……す、素敵でした。とても」
恥ずかしそうにしながらも素直に口にされ、フィオグラウスはふっと心が温かくなり、薄く笑みが溢れた。
「よかった。私は、ルルーシャに格好良いと思ってほしくて頑張りました。だから……素敵だと思って下さったのなら、ご褒美を下さい」
覗き込んで僅かに首を傾げ、甘えるようにそう言えば、まつ毛に涙の粒をつけながら、ルルーシャが「ふふふ」と紅茶色の丸い瞳を柔らかく細める。
「わかりました。何をご希望ですか?」
微笑んだその表情が、幼い頃に見た彼女の笑顔と重なり、フィオグラウスは眩しさを感じながら望みを告げた。
「撫でてほしいんです。あなたが眠る瞬間まで」
予想していなかった言葉に、ルルーシャの瞳がゆっくり見開かれる。
意味を完全には理解できていない彼女の目をじっと見つめ、はっきりと言った。
「あなたの隣で……同じ寝台で眠らせてください」
抱きしめられたままの紅茶色の瞳が、動揺で揺れた。
ルルーシャの体温が急激に上がったのを感じながら、フィオグラウスは心の内で激しく緊張に鳴る鼓動を隠すため、敢えて視線を逸らさずに耐える。
「あ、の──」
顔を赤くした彼女へ「頷くだけでいい」と促すように、戸惑いで薄く開いたその唇を、そっと触れた指先で制止した。
「お願いします。あなたが怖がるような事は何もしません。誓います。そしてもしも……もしもあなたが怖い夢を見てうなされていたら……あなたを起こして抱きしめても良いと、私に許しを下さい」
君を救いたい。
それだけを願いながら、一言一言を真摯に乞う。
「夢の中で助けられない代わりに、そばに居させて下さい」
祈るように告げた瞬間、ルルーシャの目から、真珠のような涙が一粒こぼれ落ちた。
彼女の背を抱いたまま、唇に添えていた手をゆっくりと頬に滑らせ、伝う涙に優しく触れる。
「ね、お願いです。どうか『はい』と。私に、ご褒美を下さい」
ダメ押しとばかりに甘くこつりと額を合わせれば、首までほんのりと色付きながらも、ルルーシャは小さく「はい」と頷いた。
その表情には、緊張よりも安堵が濃く浮かんでいる。
悪夢がどれだけルルーシャを苛んでいたかがありありと伝わり、フィオグラウスはもう一度、その小さな肩を引き寄せ抱きしめた。




