第29話 怖い夢
(どうしよう……怖い……怖いよ)
どこかもわからない古い屋敷の一室。
灯りもなく薄暗い部屋の隅でピッタリと壁に背を付けて蹲り、正面の扉をじっと凝視して小さなルルーシャは恐怖でただただ震えていた。
広々とした立派な部屋なのに、大きなカラの洋服箪笥と、書き物をするための小さな机と椅子、それからその横に衝立が一つあるきりだ。
絨毯すら敷かれず床板が剥き出しなそこには、様々な種類の動物達が数頭ずつで鎖に繋がれ、ぐったりとした様子で横たわっていた。
(ここはどこなんだろう。おうちへ帰りたい)
新しい侍女と一緒に公園へ花を見に出かけた時は晴れていたのに、今はすっかり空に黒い雲が広がり、鉄格子が嵌められた窓ガラスは、激しく打ち付ける雨風で絶えずガタガタと音を立てている。
ピシャ!! という大きな雷鳴と同時に埃っぽい部屋が一瞬だけ明るく光り、ルルーシャは「ひっ!!」と肩を震わせ、隣で横たわる柔らかな存在にギュッとしがみついた。
「わ、わんちゃん……わんちゃん、起きて……。お願い、起きて」
泣きそうになりながら、優しく、だが必死にルルーシャが撫でたのは、彼女がしがみついている大きな白い犬。
他と同じようにぐったりとしているその犬は、シーツのような布で雑に体を巻かれ、首輪から伸びる長く重い鎖は、ルルーシャの腕に嵌められた枷と繋がっていた。
「──ですから、そろそろ──の効果が──」
「──と──では差はないのか? ──だけに効いてくれた方が一層いい結果になるんだがな」
不意に部屋の外から声が聞こえ、ルルーシャは身を固くし息を顰める。
白い犬をきつく抱きしめたまま、咄嗟にギュッと目を瞑り寝たふりをした。
ゆっくりと扉が開き、男が二人、ギィと床板を軋ませながら入ってくる。
近づいて来る足音が恐ろしく、ドクドクと鳴る心臓に急かされるように、様子が気になってルルーシャはそっと薄目を開けた。
「希少種も実験に使うなんて、もったいないですねぇ。まあ、こちらとしては金さえ貰えれば何でもいいんですけどね」
しゃがれた声でそう言った男は、懐から小さな袋を取り出すと、その中に入っていた丸薬のようなものを、倒れている動物達の口に無理やり入れていく。
「あんたも珍しくここまで来たんですから、ちょっとは手伝って頂いてもいいんですよ? 口を開けさせるだけでも大変なんですから」
暗くて顔は見えないが、わざとらしくため息を吐く男にそう言われ、扉の前で立ったまま動かないもう一人の男の纏う空気が、ピリと重さを増したのが幼いルルーシャにも伝わった。
「手伝う? つまらない冗談はよせ。不愉快だ。そんな悍ましい獣どもになんて、指一本も触れたくない」
冷ややかに言ったその男は、突然降り始めた雨に打たれたのか、着ているシャツは濡れ、肌に張り付いている。
「ははっ。お貴族様は大変高貴でいらっしゃるぜ」
しゃがれ声の男は乾いた笑いをこぼしながら、とうとうルルーシャの前までやって来た。
白い犬の毛並みに顔を隠すように強くしがみ付き、息を殺す。
(怖い……!! 怖い、怖い、怖い、怖い!! 助けて、お兄様、お父様、お母様!!)
ぎし、と床が鳴り、男がそばに蹲み込んだ気配で鼓動が激しさを増した。
全身が石になったように強張り、鳥肌が立つ。
(早く……早くあっちへ行って!!)
ルルーシャが強く祈ったのが通じたのか、男がゆっくり立ち上がった。
「このガキがしがみついているせいで、薬を飲ませられませんぜ? 起こしてひっぺがします?」
問いかけに一拍間を置き、扉口に立つ男がため息混じりに答えた。
「……いや、いい。今起きて顔を見られるのも、騒がれるのも面倒だからな」
「後で俺が騒がれる分には、どうでもいいってことです?」
ニヤニヤと冷やかすように男が言う。
「騒がれても手を出すなよ。放置でいい。人間が手をあげた痕が残るのは良くないからな。あくまで、この娘を傷つけるのは獣どもでなければ意味がない」
「完全に効果が出るまで、予想ではあと二、三日ってとこですか。それまで俺は動物の世話係ってことですね」
入り口の方へ戻っていきながら、男が軽口を叩く。
ルルーシャがまたそっと薄目を開けた時、扉の前に立っていた男とすれ違い様に、先に部屋を出ようとしていたしゃがれ声の男がヘラヘラと言った。
「レオドニル国も大変ですねー。前からは人間に狩られ、後ろでは地を歩く鳥が舌なめずりって──」
その瞬間、微動だにしなかったもう一人の男が、閃光のような速さで振り返り、しゃがれ声の男の首を思いっきり掴んで持ち上げ、ダン!! と大きな音をたて扉に乱暴に打ちつけた。
「かっ…、は……や、やめ……」
足をバタつかせ、首を掴んでいる腕を剥がそうともがく手をものともせず、なおもギリギリと力を込めながら、雨に濡れた男が低く唸るように言った。
「その言葉を二度と口にするな。次は殺す」
しゃがれ声の男が口端に泡をこぼしながら、コクコクと必死に視線で頷くと、もう一人の男は乱暴に手を離し男を床に放り捨てる。
その瞬間、再びピシャ!! と大きな雷鳴が響き、シャツの張り付いた男の背が眩い光で照らされた。
(……やけ、ど……?)
はっきりとは見えないが、その背には全面に大きな傷痕が透けており、さらにはボロボロの──…。
再び暗くなった部屋の明暗差で、一瞬何も見えなくなる。
暗闇の中で息を潜めていると、しがみついていた柔らかな温もりがするりと腕の中から離れ、代わりにルルーシャの手が硬い板に触れた。
(──え?)
気付けば、自分がいるのが先ほどまでの部屋ではなく、狭い箱のような空間に閉じ込められているとわかって激しく動揺する。
低い猛獣のような唸り声が聞こえ、ゾッと背筋が凍った。
「出して!! ここから出して!!」
ルルーシャは咄嗟に叫んだ。
「お願い、──!! ──!! ここから出して!! ──!!」
誰かを必死に呼ぶが、誰を呼んでいるのかわからない。
ただ聞こえ続けるのは、何かが激しく暴れる音と、幾つもの動物の唸り声に混じる悲痛な断末魔。
心臓がバクバクと全身を震わせ、恐怖で歯がガチガチと鳴る。
ルルーシャはドンドンと目の前の硬い板を叩きながら、必死で大声をあげた。
「殺さないで!! お願い、殺さないで!! ──を殺さないで!!」
ボロボロと涙を流しながら、声の限りに叫び続ける。
「──!! もうやめて!! 一緒にいてよ!! 約束したじゃない!!」
暗闇の中でわんわん泣いていると、硬い板の向こうから、優しい声がした。
「大丈夫だよ、ルルーシャ。絶対……君を守るから」
途端に、その声は恐ろしい獣の唸り声にかき消された。
僅かに開いた板の隙間から見えたのは、暗闇の中で鋭い牙を剥く、血まみれの大きな白い──。
「待って、お願い、殺さないで!! ──を殺さないで!!」
恐怖と苦しさで喉が焼ける。
名前を呼びたいのに、言葉が出てこない。
(誰なの?)
硬い板を叩くこぶしが、痛みで燃えるように熱い。
(私が呼んでいるのは誰なの? あなたは、誰?)
闇の中で全ての音がぐちゃぐちゃに混ざり、寒気と吐き気で目眩がする。
(助けて。お願い助けて。誰か……誰か……!! ──を助けて!!)
恐怖を追い払うようにひたすらもがいていると、不意に導くような穏やかで力強い声がした。
「──ルルーシャ!」
宙に伸ばした手を優しく握り返されながら名を呼ばれ、ルルーシャはそこで目を覚ました。
荒く息をしながら開いた瞳に映ったのは、見慣れた自分の部屋の天井と、それから──。
「ふぃ、お……ぐらうす、さま……?」
夢との境が曖昧なまま辿々しく呟けば、心配そうに彼女の顔を覗き込んでいたフィオグラウスが、安心したようにほっと軽く息を吐いた。
「……目を覚ましてくれて、よかった。酷くうなされていたから……」
寝台に仰向けに横たわったまま茫然と涙を流しているルルーシャを見つめる彼の頭上で、三角の白い耳がぺたんと倒れ、紫の瞳は不安げに揺れている。
騎士服ではなく簡素な普段着に着替えており、寝台の横に椅子を寄せ、どうやら眠っている間側にいてくれたらしい。
「ルルーシャ、大丈夫ですか?」
目尻の涙を大きな手でそっと拭われ、慈しむように額を撫でられると、ルルーシャの胸には、一気に安堵が広がった。
へにゃりと無理やり笑ってみせ、ゆっくりと体を起こす。
「大丈夫……です。怖い夢を見ていた気がするんですけど……フィオグラウス様のお顔を見たら、なんだか凄く安心して……忘れちゃいました」
そう答えた瞬間、ルルーシャの目からボロと涙がこぼれ落ちた。
(どうして……)
自分で口にした「忘れた」という言葉で、胸の中にぽっかりと穴が空いているような寂しさと焦燥に気づく。
動揺で瞳が揺れ、視線が彷徨ってしまう。
「ルルーシャ」
咄嗟に、苦しげな表情をしたフィオグラウスが彼女を引き寄せ、抱きしめる。
ふわりと彼の温もりに包まれると、余計に涙が溢れて止まらなかった。
「す、すみません。なんだか……怖い夢だったはずなのに、忘れてしまったのが……悲しくて」
フィオグラウスは、何も答えなかった。
ただルルーシャが泣き止むまで、何かをじっと待つように、優しく彼女を抱きしめていた。




