第23話 あなたの温もり 2
早鐘のように鳴る鼓動のせいで、ルルーシャは爪の先までがビリビリと痺れているような錯覚に襲われていた。
(怖い……)
フィオグラウスへ伸ばした手は、あと数ミリという所で宙に浮いたままだ。
緊張で胸が押しつぶされるように息が苦しい。
カタカタと震えるだけでそれ以上進まない手が悔しく、じわりと涙が滲んできてしまう。
(どうして、こんなに怖いんだろう。犬に追いかけられたり、噛まれた記憶なんてないのに……昔は大好きだったはずなのに……どうして)
ここ最近、ルルーシャは自身の記憶に矛盾があることに気が付き始めていた。
幼い頃は、確かに犬が好きだった記憶があるのだ。
犬を飼っている令嬢の家に招待され、庭で駆け回って一緒に遊んだ経験だってあった。
だがどうしてか、自分には八歳前後の記憶がなく、それを境に犬が怖くなってしまっている。
優しいフィオグラウスにすら震えてしまう程に、何が自分をそうさせているのかわからず、ルルーシャは困惑していた。
(近付きたい。でも……やっぱり、怖い。今日も……無理なの?)
あとほんの僅かの勇気が出ず、自分が嫌になって気分もどんどん後ろ向きになってしまう。
暫くの間、狼の耳だけをじっと見つめ続け、とうとう手を引き戻してしまった。
困り果て、グシャリと顔を歪めて唇を噛んだ──その時。
(──え)
視界の端に、キラと小さな輝きが映り、ルルーシャはフィオグラウスの顔に視線を向ける。
そして、息が止まった。
(フィオグラウス様……泣いてる……?)
長いまつ毛が並ぶ、閉じたままの彼の目元。
目頭のきわに微かに溜まった、一粒分にも満たない涙が、部屋に差し込む日の光を反射しきらめいていた。
同時に、彼の眉が苦しげに僅かに寄せられていることに気づき、ルルーシャは心配でたまらなくなった。
(怖い夢を、見てらっしゃるのかしら。助けて差し上げたい……フィオグラウス様を)
そう思った瞬間、無意識のうちにルルーシャの手がフィオグラウスの頭に再び伸びる。
そして──。
──ふわり。
綿毛のように柔らかな、それでいてその奥に皮膚の弾力を感じる温もりが、ルルーシャの手に触れた。
フィオグラウスの顔を見つめたままだった彼女は、その不思議な感触に驚き、サッと自身の手を見る。
(……あ)
見やった先──彼女の手は、包み込むようにフィオグラウスの耳に触れていた。
(……触れられた)
しっとりとなめらかな毛並みの上をそろそろと手のひらが滑り、うっとりとするような喜びが胸の中に広がる。
(フィオグラウス様に、触れられた……!!)
噛み締めるようにぎゅっと一度瞳を閉じた。
再び開いた目には、涙がいっぱいに溜まっている。
ルルーシャはそれを構いもせずに、ふにゃりと眉を下げ破顔すると、フィオグラウスの耳をゆっくりそっと撫でながら、目を閉じたままの彼の耳元で小さく囁いた。
「──フィオグラウス様。大丈夫ですよ。怖くないですよ」
その瞬間、ぴくと彼の尻尾が揺れた。
(夢の中で……聞こえているのかしら)
優しく。
穏やかな声で、眠っている彼に話しかける。
(優しいこの人に……怖い夢なんて、見てほしくない)
そう思いながら、何度もそっとふわふわの耳を撫で、さらりと流れている前髪をなぞるように、額に触れた。
「フィオグラウス様、大好きです。ずっとおそばに、一緒にいますよ。怖い夢から……私が守ってあげますからね」
だから、泣かないで。
願いながら、もう一度優しく耳を撫でたルルーシャの膝に、まるで返事をするように尻尾が僅かに揺れて触れた。
少し重さのあるもふりとしたその感触に、不思議な懐かしさを覚えて視線を向ける。
それと同じ時に、背後で小さなノックの後、扉が静かに開いた。
「──お嬢、まだです?」
「──っ!!」
顔を覗かせたユーリスの声に、ビクリと大きく肩が跳ねる。
「あ、あの……ま、だ……」
眠っているフィオグラウスに勝手に触れていたことが途端に恥ずかしくなり、振り返ったルルーシャは瞳いっぱいに涙を溜めたまま、顔を赤くして盛大に狼狽えた。
どう答えればいいのか迷っているうちに、部屋に入り、ソファの二人の様子を見た『見守り隊』の三人が、その顔に驚きを浮かべた。
「え、お嬢もしかして──」
「お嬢様」
一番に口を開いたユーリスを押し除け、もの凄い速さで進み出たクロエが「ルルーシャしか目に入らない」と言うように視線を逸らすことなく彼女に詰め寄った。
「お嬢様、目元が潤んでいます。すぐにお部屋で目を冷やしてお化粧を直しましょう。ね、そうしましょう」
「え、ちょ……クロエ!?」
驚くルルーシャを素早く立たせ、有無を言わさぬ笑顔のクロエが彼女を応接室から連れ去った。
パタリと扉が閉まり、メルトとユーリスがソファに横になったままのフィオグラウスにゆっくりと近付いた。
「若様」
主人のすぐ側に片膝を付いたメルトが、静かに声を掛ける。
「若様、もう大丈夫ですよ。クロエが気付いて、ルルーシャお嬢様を連れ出してくれましたから。ですから……もう大丈夫です」
その瞬間、寝そべったまま薄く開けたフィオグラウスの瞳から、ぼろと大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
天井を見つめグシャリと顔を歪めた彼は、片手でその両目を覆い、喉からは堪えきれず嗚咽が漏れる。
「……る、るーしゃ、が……」
「はい」
「ルルーシャが……触れてくれた」
立ち上がることもできず子どものように泣くフィオグラウスの髪を、メルトの隣に立つユーリスがわしゃわしゃと豪快に撫でた。
「よかったな、若!! 本当に……本当に俺は嬉しいぜ!!」
泣き笑いのような表情で言う彼の喜びが伝わっているのだろう。
フィオグラウスはその手を振り払うことなく、好きなようにさせている。
微かに目を細めたメルトが、膝を付いたままハンカチを差し出した。
「若様。本当に、よく頑張られましたね。本当は……お嬢様が部屋に戻られた時から、起きてらっしゃったんでしょう?」
主人からの返事がないことを、メルトは肯定だと受け取った。
彼の言う通り、フィオグラウスはルルーシャが部屋に入り扉を閉めた時に、すでに目を覚ましていた。
(まずい)
そう思ってすぐに耳と尻尾を隠そうとしたが、ルルーシャが近付いてくる気配を感じ、急に動いて怖がらせる訳にもいかず、じっと寝たふりをして耐えていたのだ。
耳元で囁かれた「すき」という言葉で、どれだけ歓喜したか。
触れようと頑張っていることが息遣いから伝わり、嬉しさと苦しさでどんなに胸が締め付けられたか。
そして彼女は言った。
──怖くないですよ。私が守ってあげますからね。
ルルーシャは気づいていないが、それは十年前、フィオグラウスに向けて彼女が言ったのと同じ言葉だった。
「ルルーシャが……私を撫でてくれた。私を……!!」
止めようと思っても、彼女の温もりを思い出すだけで、涙がとめどなく溢れて来る。
待ち望んでいた彼女の熱は、遠い記憶と同じ──否、それ以上に、遥かに優しく甘やかだった。
暫くじっとして泣いていたフィオグラウスは、ガバリと起き上がって濡れた頬を拭うと、大きく息を吐いて言った。
「駄目だ。興奮してこのままルルーシャに飛び付きそうだ。……涙が止まるまで、ちょっと走ってくる」
尻尾を大きく振りながら、だっと駆け出して部屋を飛び出したフィオグラウスの背を見送り、部屋に残されたメルトとユーリスは、顔を見合わせて破顔した。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
ようやく触れ合えるようになったフィオグラウスとルルーシャ。
失った記憶は取り戻せるのか、犯人は見つけられるのか、二人のこの先をぜひ見守って頂けると嬉しいです。
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