第22話 あなたの温もり 1
「……流石にきついな」
柔らかく午後の日がさす屋敷の談話室に、フィオグラウスの暗い声が落ちた。
先程まで一緒にこの部屋にいたルルーシャは、着替えのためクロエと共に席を外している。
寄り添うように並んでソファに座り、隣で紅茶を飲み微笑んでいた彼女が愛しくて、思わず耳元で「可愛い」と囁いた瞬間、動揺したルルーシャがカップを落とし紅茶が服に溢れてしまったのだ。
メルトは護衛のため彼女の部屋の前の廊下で待機しており、ユーリスは「外飛んでくる」と言って出て行ったばかり。
他に誰もいない室内で、僅かに顔を顰めフィオグラウスはそのままごろりとソファに横になる。
(ルルーシャは……もう暫くは戻ってこないはずだ。休むなら今しかない)
そう考え、半獣化の姿に戻り真っ白な耳と尻尾が現れると、開放感から「はあ……」とため息が漏れた。
ルルーシャとの暮らしが始まってから、すでに二ヶ月と少しが過ぎている。
その間多くの時間を人化の状態で過ごしているせいで、顔には出さないものの、彼は常に頭痛と倦怠感に苛まれていた。
(彼女が戻って来るまでには……また人化しておかなければ)
ルルーシャには「集中力が必要」としか伝えていないが、獣人は人化し続けると心身ともに負担が大きい。
それはフィオグラウスも例外ではなく、彼女の前では常に無理をしていた。
(私が白狼でなければ……恐らくこれほど長時間の人化には耐えられなかったはずだ)
天井を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思う。
狼の獣人は通常であれば黒、茶、灰色の三色しか生まれない。
だがごく稀に、遥か昔にしか存在しなかったと言われる白い狼が生まれることがあり、白狼の獣人は他の一族の者に比べ身体能力も精神力も桁違いに高い。
フィオグラウスのように、いわゆる先祖返りをした特殊な個体は他の種族にも存在するが、いずれにせよ一族にとっては特別な存在だった。
(本当に……自分が白狼でよかった)
無意識に、自分の耳に軽く触れる。
(もう少しだけ……休んだら……)
人化を解いた安堵が広がる胸を温かな光が照らし、瞼が徐々に重くなる。
疲弊していたフィオグラウスの意識は、自身でも気付かぬうちにそのまま微睡みに溶けていった。
「──え?」
戻ってきたルルーシャは、談話室に足を踏み入れる直前、小さく驚きの声をあげた。
クロエがゆっくりと開ける扉の隙間から、目を閉じソファに横たわるフィオグラウスが見えたのだ。
「ちょ、ちょっと待って」
思わず扉を開けようとするクロエの手を制止し、再び扉を閉める。
慌てる彼女を、『見守り隊』の三人が不思議そうに見つめた。
(フィオグラウス様、眠っていらっしゃった? それに、あのお姿は──)
このまま全員で部屋に入れば、きっと彼を起こしてしまう。
そう思ったルルーシャは、視線を彷徨わせて小さな声で言った。
「あ、あの……少しだけ、ここで待っててくれない?」
「「「え?」」」
「後で呼ぶから!」
顔を少しだけ赤くし押し殺した声でそれだけ言うと、ルルーシャはクロエ達を置いて音も立てずに自分だけサッと部屋の中に入り、背ですぐに扉を閉めた。
(……人化が解けてる)
扉にピッタリ背を張り付けたままのルルーシャの視線の先にいるのは、ソファに横たわるフィオグラウス。
仰向けの状態で片手は無造作に胸の上に置かれ、日を浴びてキラと輝く白い前髪はさらりと流れて、形の良い額が珍しく覗いている。
軽く片膝を曲げ身を捩った腰の下からは、ふさふさとした狼の尻尾がソファから床へ垂直に落ち、頭の上の三角の耳が時折ぴくと小さく動く。
初めて見るフィオグラウスのこの無防備な姿を、誰にも見せたくなくて。
それでいて、この特別な瞬間を自分だけは見たいと思ってしまったルルーシャは、ドキドキと胸を高鳴らせながら、音を立てないようにゆっくりと彼に近付いた。
(……本当に、眠ってる)
緊張しながらそっと彼の隣、絨毯に直接しゃがみ込んだルルーシャは、穏やかな寝息を立てるフィオグラウスの顔をじっと見つめた。
普段は優しげで麗しい顔が、今はどこか幼なく感じる。
──ルルーシャ。
柔らかく名を呼ぶ声が耳の奥で響き、伏せられた彼の長いまつ毛に視線が吸い寄せられた。
──大好きです。出会った時から、ずっと。
そう言った彼の瞳を思い出すだけで、締め付けられるような甘さと切なさで胸がいっぱいになる。
(フィオグラウス様は……ずっと待って下さってる)
どくどくと大きく鳴る心臓を落ち着かせるように、胸の前でぎゅっと両手を握り、目を閉じる。
(頑張りたい。優しいこの人のために。……できるかもしれない。フィオグラウス様が気付いていない、今なら──)
ほう、と溢れた息を押し殺しながら瞼を開けたルルーシャは、小さく震える手を握りしめる。
それからそっと、フィオグラウスの耳に顔を寄せた。
「──すきです」
小さく。
消え入りそうな程ささやかにそう呟いた。
ぴく、と耳が動いた気がして息を呑む。
どっと煩くなった鼓動を無視してフィオグラウスを注視し、彼が起きていないのを確認すると、唇を引き結んで決意を固めた。
(がんばれ私。頑張るのよ。フィオグラウス様をちゃんと見るのよ)
己を鼓舞し、大きく息を吸う。
(近付きたい。フィオグラウス様の……あなたの温もりを、ちゃんと知りたい)
ルルーシャは微かに震える手を、恐る恐る、目を閉じたままの彼の耳へと伸ばした。




