第2話 怖いもの
ルルーシャが怖いものは、暗闇と、兄と、犬。
暗闇が怖い、という話はよく聞く。
犬……というのも、まああるだろう。
だが怖いものが実の兄、というのは何故か。
それは、彼の醸し出す「逆らってはいけない」と思わせる存在感と、振る舞いが原因だった。
ルルーシャの兄、エドガー・シャルトレを一言で表すなら、魔王。
ルルーシャよりも十歳年上──今年で二十八歳になるエドガーは、上品に牙を隠した美しい肉食獣のような男だ。
眉目秀麗。
全知全能。
絶対王者。
そんな言葉がよく似合う人間だ。
ルルーシャよりも少し深い焦茶の髪をざっくりと粗く後ろへ流し、常に余裕の色が浮かんでいる切れ長の瞳も、濃い茶色。
ただ立っているだけで目を引く存在感がある彼には、視線を合わせれば「否」とは言わせない謎の圧がある。
八年前、才覚溢れる兄は二十歳という若さで父から侯爵位を継いでおり、すでに結婚し子どももいる彼は、領地を離れ王都の侯爵邸で暮らしていた。
華やかで力強いエドガーに対し、ルルーシャは小柄で童顔、やや素朴で推しに弱い。
彼女は十歳の頃から、兄に家督を譲った両親とともに領地の屋敷で暮らしていたが、王都で暮らす兄は、頻繁にやって来てはルルーシャを可愛がった。
彼なりの強引な方法で。
「支度をしろ。出かけるぞ」
突然そう言って、劇場や、宝飾店や、市場に、森、湖、海、山──様々な場所へ、兄の気分で連れて行かれるのはもはや恒例行事。
それだけならまだいいが、厄介なのは彼が突然投げてくる無茶振りだ。
「ルルーシャのピアノが聴きたい」
「ちょっと乗馬に付き合え」
「手作りの菓子を食べたい」
「暇なら仕事を手伝いに来い」
簡単なものから、やったこともない難易度の高いものまで、その要求は様々。
最近は忙しいのか回数は減っていたが、侯爵位を引き継いですぐの頃は、特に頻繁だった気がする。
決して仲が悪いわけではない。
エドガーがルルーシャを可愛く思っているのはわかっているし、寧ろ兄妹仲は良い方だろう。
好きか嫌いかで言うなら、エドガーのことは尊敬しているし大好きだ。
ただ兄という存在には「逆らってはいけない」という本能的な何かが働き、無茶振りに難色を示した時の、「……ふーん」と目を細めるエドガーは、本当に迫力があって恐ろしい。
断ればどうなるか想像しただけでも胃が痛く、ルルーシャは「はい! 仰せのままに!」と強引な兄にいつも大人しく従うしかないのだった。
そういうわけで、ルルーシャが怯える怖いものの中には、この優しくも魔王のような実の兄が含まれていた。
そんな兄から、ルルーシャは今朝、緊急用の手紙で「すぐに来い」と呼び出された。
領地から出るのは本当に久々だったが、兄の可愛がりの延長だと思い、片道二時間かかる王都の侯爵邸へとやって来た。
「ようやく来たか」と優雅に出迎えてくれたエドガーが、なぜか来客を迎える用の豪奢な黒の礼服を身に纏っているのを一目見て、ルルーシャは嫌な予感がした。
(いけない。お兄様のこのお顔は……何か良からぬことを企んでいる時のものだわ)
兄がにっこりと綺麗な笑みを浮かべる時は、決まって特に難しい無茶振りをされるのだ。
そして、その予感は的中した。
「喜べ、可愛い妹よ。優しいお兄様が、十八歳になったお前のために、成人祝いを用意してやったぞ」
「まあ、エドお兄様。お祝い……ですか?」
微笑んで聞き返しながら、声が上擦ってしまう。
(できる事なら、続きを聞きたくない……なんならすぐに領地へ帰りたい!)
心の中でそう祈ったが、それを見透かすようにエドガーは美しく口角を上げ、さらりと衝撃的なことを言った。
「成人祝いに、お前に婚約者を連れてきた」
「え!?」
兄の言葉で、ルルーシャは紅茶色の瞳を溢れんばかりに見開いた。
彼女には婚約者などいない。
それを「連れてきた」とは、どういうことなのか。
エドガーはさらに言う。
「今、応接室で待たせている」
「お……応接室……? それに、い、今ですか!?」
慌てふためく妹の姿に満足したのか、エドガーは一層笑みを深くすると、「早く来い」と言ってさっさと廊下を進み始めてしまった。
「お兄様! ちょっと待って下さい!!」
ふわふわとした髪を揺らしながら、ルルーシャは兄の後ろを早足で追いかけた。
(どどど、どういうこと!?)
まさかの展開に、さすがのルルーシャも大きく動揺していた。
応接室の一歩手前でようやく追いついた彼女は、扉を開けようとしたエドガーの服を引っ張り必死で引き留める。
「お兄様、婚約者ってどういう事ですか? お父様達もご存知なの?」
焦りを滲ませ小声で詰め寄るルルーシャを見下ろして、エドガーはニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「もちろんだ。いくら俺が当主とはいえ、可愛いルルーシャの行く末を独断で決めるなんて事はしないさ。会ってみて嫌なら、破談にしてもいいぞ」
「破談にって……そんな簡単に仰って良いことでは……」
「そう思うなら、受け入れればいい。どの道、貴族の結婚は家の方針が最優先だ。政略的に結ばれるものだと、最初からわかっていただろう。それが今なだけだ」
そう言われ、ルルーシャは眉を下げて黙った。
侯爵家の令嬢である自分が、成人するこの歳まで婚約者もなく暮らしていたのは、いざという時の政治的な駒として、どこかの国や家と縁を結ぶためだということはわかっている。
だが、それにしても急すぎるのではないか。
「事前に教えて下されば良いじゃありませんか」
不満げに呟いたルルーシャに、兄は笑った。
「事前に言ったら面白くないだろう」
「付き合わされる身にもなって下さい!」
「まあまあ、怒るなよ。こちらにも事情があってな」
エドガーの無茶振りはいつものこと。
当主である彼に「事情がある」と言われれば、ただの妹である立場でそれ以上何も言いようがない。
「家の者達には通達していたから、いつもより可愛らしい仕上がりになっているし、問題ないだろう?」
なだめるように片眉を上げて言われ、ルルーシャは自身の服装を見た。
緩く編んで下ろしたチョコレート色のふわふわの髪には、可愛らしいパールの髪飾り。
ふんわりと裾が広がる淡い菫色のドレスは、首元や腕のレースが上品で、普段より大人っぽく来客に対しても失礼に当たらない装いだ。
それに出発前、いつもより念入りに化粧をされたのを思い出した。
後ろに控えついて来ていた専属侍女を見れば、「すみません」と言うように眉を下げ微笑まれた。
本当に、知らなかったのは自分だけらしい。
「……お会いするしかないのですね?」
小さくため息をついたルルーシャに、兄はまた悪巧みをしている時の美しい笑顔を浮かべた。
「さすが俺の妹だ。切り替えが早い」
「切り替えではなく、諦めです。お兄様」
「ははっ。結果は一緒だ。──おい、フィオ。待たせたな、入るぞ」
ルルーシャの嫌味を軽くあしらったエドガーは、ノックするや否や応接室の扉を開ける。
「──っ、はい」
緊張の走った低い声と共に、部屋の中、正面のソファに掛けていた男性が急いで立ち上がった。
そこにいたのは、真っ白な髪に紫の瞳、騎士服に身を包んだ、ため息が出るほどに美しい男性──フィオグラウス・ルノワだった。
だが、ルルーシャが注目したのは、その美貌ではない。
彼の頭の上にある三角の白い獣の耳と、腿の後ろで揺れる白い立派な尻尾に、彼女の視線は釘付けになった。
(──っい……犬!?)
悲鳴こそ何とかあげずに耐えたが、本当は白狼の獣人であるフィオグラウスが、大の苦手な白い犬に見えたルルーシャは、心底驚き衝撃を受けた。
そのせいで失礼なことに、彼女は無意識に大急ぎで応接室の扉を閉めてしまっていた。
パタン、と音が鳴り、廊下がしんと静寂に包まれる。
その瞬間、恐怖で固まり呆然とするルルーシャの隣で、エドガーは盛大に吹き出した。




