第1話 侯爵令嬢の受難
「ほ……本当に、触りますよ? ……いいんですね!?」
王都にある、重厚にして絢爛な侯爵邸の、美しく整備された広い庭。
穏やかな日差しが降り注ぎ、花々が咲き誇るそこに、この家の令嬢ルルーシャの、緊張に震え──少々やけくそな声が大きく響いた。
チョコレート色をした、緩く波打つふわふわの髪が微かに風でなびき、紅茶色の丸い大きな瞳には、じわりと涙が滲んでいる。
淡い菫色のドレスの胸元でギュッと両手を合わせ、何度か深呼吸をした小柄なルルーシャは、眉を寄せて桃色の愛らしい唇を引き結ぶ。
それから、決意したように目の前の一点を見つめた。
(大丈夫、彼は大丈夫。落ち着いて……ただ、ちょっと、触るだけ……)
心の中で必死にそう念じる彼女の視線の先にいるのは、恭しくひざまずく、一人の美しい青年。
さらりとした雪のように白い髪は陽光で煌めき、甘く優しげな紫色の瞳は僅かに伏せられ、長いまつ毛が頬に影を落としている。
物語に登場する王子のような柔和で美麗な面差しの彼は、豪華な金糸の刺繍に縁取られた真っ白な騎士服を身に纏い、その襟には他国出身であることを表す二頭の獅子の紋章が輝いていた。
「私はいつでも大丈夫です。どうぞ……あなたのお好きなように」
ルルーシャと同じように緊張がのった低い声でそう言った彼は、つい先程紹介されたばかりのルルーシャの婚約者──フィオグラウス・ルノワ。
じっと動かないフィオグラウスに、じり……と一歩近づいたルルーシャは、ゴクリと喉を鳴らした。
「ぜ……絶対……絶対に動かないで下さいね!?」
そう言いながら、彼の頭の上に伸ばしたルルーシャの片手は、大きく震えている。
(うう……心臓が痛い)
ルルーシャの鼓動は先程からバクバクと煩く、爆発寸前だ。
だがこれは決して、麗しい婚約者への恋心で胸が高鳴っている訳ではない。
ルルーシャが感じている途方もない緊張は、恐怖から来るものだった。
その原因は、目の前のフィオグラウス──の、頭の上にある三角に尖った白い獣の耳と、パタパタと地面の上で揺れている、同じく白色のふさふさで立派な尻尾。
ルルーシャの婚約者は、遠い獣人の国からやって来た、白狼の獣人だったのだ。
(触るだけ……頑張れ私! ちょっと触るだけでいいんだから……!)
ゴクリと生唾を飲み込み、片手を宙に浮かべたまま一向に動こうとしないルルーシャに、様子を横で見守っていた彼女の兄と専属侍女がたまらず口を挟んだ。
「おい、たかが頭を撫でるだけでどれだけ時間をかける気だ」
「お嬢様! 頑張ってください! いけます! 絶対いけます!!」
「だ……だって……」
ルルーシャが思わず涙を浮かべた視線を向ければ、心を読んだように兄が言う。
「ルルーシャ、そいつは犬じゃない。狼だ。さっさとやれ」
「わ…わかっています! でも、──っ!!」
びくりと小さな肩を揺らし、ルルーシャの視線が瞬時にフィオグラウスに戻る。
泣き言を言おうとした彼女の視界の端で、ひざまずいたまま微動だにしないフィオグラウスの尻尾が、パタと大きく揺れたのが見えたのだ。
途端に、今度はフィオグラウスの横に控えていた彼の従者達がヤジを飛ばした。
「若様、尻尾が揺れています。動いちゃダメですよ」
「あっはっは。期待しちゃってるのダダ漏れだろ、若。我慢して、ガマン」
婚約者のことを若様と呼ぶ彼の従者は、枝分かれした立派な角を持つ鹿の獣人と、大きな黒い翼を背に畳んだ大鷹の鳥人だった。
「うるさい、わかっている」
視線を伏せたままのフィオグラウスがサッと顔を赤くし、唇を噛んだ。
恥じらいと期待と不安の混ざる瞳を揺らし、ひざまずいている彼の姿は、正直に言って倒錯的な色香と艶がある。
見てはいけないものを見ているような気がして、ルルーシャの心臓はさらに大きくドッと鳴ったが、もはやその心臓の音の原因が恐怖なのか、羞恥なのか、緊張なのか、ときめきなのか──彼女にもわからなくなっていた。
(犬じゃない……フィオグラウス様は犬じゃない……!)
己に言い聞かせながら、大きく息を吸う。
ジリジリと距離をつめ、震える指先が、あとほんの僅かで滑らかそうな毛並みのピンと立つ耳に触れる──という時に、待ちきれなかったのか、フィオグラウスのその白い耳が大きくピクと動いてしまった。
「──っ!!」
驚いたルルーシャは声にならない悲鳴をあげ、思わず手を引っ込めてサッと大きく一歩、身を引いた。
途端に、二人の様子を見守っていた面々から、落胆の声が湧く。
「あー惜しい! 動いちゃったな、若」
「もうちょっとでしたけどね」
「お嬢様、もう一回! もう一回頑張りましょう!」
「ルルーシャ、いい加減日が暮れるぞ。そいつは犬じゃなくて狼だと言ってるだろう」
好き勝手に騒がれ、ルルーシャは顔を赤くしてじっとフィオグラウスを見る。
(犬じゃない……犬じゃないのは、わかってるけど……)
心臓が限界に達した彼女は、茶色の大きな瞳に涙を溜めて、ワナワナと震えながら叫んだ。
「でもやっぱりまだ怖いの! ごめんなさい!!」
そのままバッと身を翻したかと思うと、ルルーシャはその場から逃げ出した。
王国の政治の中核を担うシャルトレ侯爵家。
その家の娘、十八歳の成人を迎えたばかりのルルーシャ・シャルトレには、怖いものが三つある。
一つは、夜の暗闇。
一つは、優しく頼りになるが、いつもルルーシャを振り回す兄。
そして最後の一つは──犬。
その中でも、白い犬がとりわけ大の苦手だった。




