第12話 狼にご飯をあげてみましょう 2
「では、あの……よろしくお願いします」
まだ料理は運ばれていないが、すでに夕食の良い香りが漂う食堂の中。
テーブルの角を挟んだ隣同士、斜め向かいの席に座るフィオグラウスから躊躇いがちにそう言われ、ルルーシャは急激に鼓動の速度が増した。
「は、はい。お願いします」
緊張しながら答えたが、それよりもフィオグラウスの声の方が、一段固い。
それもそのはずだ。
ちらと視線を向けた先の彼は、ルルーシャのお願い通りに、ドレス用のサッシュに似た幅広の長いリボンで椅子に拘束され、早くも赤面し俯いていた。
「若様、始めますよ。お顔を上げてください」
「ルノワ様、これもお嬢様の恐怖心克服のためですから!」
「そーそー。恥ずかしがってる場合じゃないって、若」
真剣そうな声音とは裏腹に、壁際に控えどことなくこの状況を楽しんでいるような『見守り隊』の表情に、フィオグラウスが噛み付いた。
「お前達、絶対面白がってるだろう!」
「「「いえ、至極マジメです!」」」
ビシリと声を揃えた三人に、フィオグラウスは顔を赤くしたまま恨めしげに唸る。
ルルーシャを怖がらせないよう、ご丁寧に両手まで後ろに回して縛られているため顔を隠すことができず、羞恥心で悩ましげに伏せられた彼の視線は、ウロウロとテーブルの上を彷徨うしかない。
その内心は、大好きな女性の前で後ろ手で椅子に拘束されているという謎の状況への恥ずかしさと、それでも『あーん』して貰いたいという期待と欲で余裕がなくなっているだけ。
だがルルーシャは、フィオグラウスの表情は「彼の騎士や貴族としての誇りを傷付けてしまっているからだ」と勘違いし、緊張しながらしゅんと肩を落とした。
(わ……私、何てことをお願いしてしまったのかしら。いくら特訓のためとは言え、立派な騎士様にこんな……申し訳なさすぎるわ。できるだけ早く終わらせなくちゃ)
ルルーシャがそんな決意に燃えている間に、彼女の前へフィオグラウス用の前菜が美しく盛られた皿が運ばれる。
食べさせやすいよう、小さく切って整えられたうちの一欠片を彼女がフォークで刺し準備できたのを合図に、赤面したまま大きく深呼吸をしフィオグラウスが言った。
「それでは──人化を解きますね」
ふわりと現れたピンと立つ白い耳は、ルルーシャの動きに集中するように彼女の方へまっすぐに向き、緊張と期待で中央にキュッと寄っている。
拘束された後ろ手の下に見える尻尾は、窮屈そうではあるがやはりパタパタと揺れていた。
「そ、それでは……フィオグラウス様、お、お口をあけて下さい」
顔を真っ赤にしたルルーシャはそう言うと、震える手で恐る恐る彼の口元にフォークを近付けた。
「いい調子です。そのまま口に入れてしまいましょう」
「お嬢様、もう少しです! 絶対いけます!」
「若、もうちょい口開けて!」
衆人環視の下で応援付き。
さらに縛られた状態で『あーん』をするという状況に、ルルーシャとフィオグラウスは心の中で同じことを叫んでいた。
((は……恥ずかしすぎる!!))
ユーリス考案『仲良くなるにはまず餌付け。飼ってる狼にご飯をあげよう大作戦』は、二週間前から早朝に行っているメルト考案の特訓よりも難易度が高い。
そのため「少し慣れてから始めよう」ということになり、食堂でのこの挑戦を始めてまだ三日目だ。
しかしルルーシャは、この特訓に関しては恐怖心よりも羞恥心に完全に意識が振り切れており、心の中で入り乱れる動揺と緊張と焦りに突き動かされ、なんと初日から『あーん』に成功していた。
(うう……し、心臓がもたない)
バクバクと耳奥で大きな鼓動が響いてうるさい。
頬を染め、瞳を揺らして苦しげに「はあ」と息を吐くフィオグラウスの表情は妙に艶かしく、見てはいけないものを見ているようで、ルルーシャの顔には一層熱が集まってしまう。
(い……色気が……溢れすぎじゃない……!? 私が勝手にそう思っているだけ!? 私の目がおかしいの!?)
震える手を近付ければ、彼の形の良い薄い口がおずおずと開き、そこへほんの僅かな食事を差し入れフォークをそろりと引き抜くだけでも、例え用のない背徳感に襲われ眩暈がした。
正直、狼の耳を見ている余裕がない。
(は、早く終わらせなきゃ!!)
特訓は前菜の皿が空になれば終わる。
ルルーシャは必死で食事を口に運ぼうとしたが、フィオグラウスがそれを止めた。
「ま……待って下さい、ルルーシャ。まだ飲み込めていないから」
咀嚼している途中だったらしく、顔を赤くし甘く蕩けた紫の瞳に請われ、ピキと固まって息を呑んだ。
そのまま瞬きもできず、こくりと上下する彼の喉をまじまじと見る。
恥ずかしそうに瞳を伏せたフィオグラウスが再び彼女に視線を移し、躊躇いがちに言った。
「食べましたので……お願いします」
彼女からの給餌を待つように、じっとルルーシャを見つめたまま彼の美しい口が開く。
その奥にちろと赤い舌が覗き──。
その瞬間、ルルーシャは爆発した。
「わーーーーーー!! すすすすみません!! もう無理!! もう無理ですーーー!!」
皿の横、ワッと叫びながら机に突っ伏したルルーシャを見て、ユーリスが盛大に吹き出した。
「ぶーっくくく、あ、あはははは!! な、なんだこれ!! は……腹痛い……くくくっ」
すかさず耳と尻尾を隠したフィオグラウスが、わなわなと肩を震わせて声を荒げた。
「うるさい、ユーリス!! お前が言い出したことだろう!! さっさとこれを外せ!!」
「はーーー、ダメだ。ぶくくく……わ、笑って力入んない。無理。め、メルトやって」
腹を押さえ膝からその場に崩れて笑い転げるユーリスを横目に、メルトが手早く拘束を解いていく。
「お二人とも、恥ずかしかったのはわかりますけど、今日も非常に良い成果でしたよ。若様は顔面に破壊力があるので、お嬢様の羞恥心を煽った方が効果的なようですね」
「そうですね。お嬢様も怖がってはいませんでしたし、ユーリスさんが仰っていたように、もっと攻めた内容でもいいのかもしれません」
味方をしてくれるはずのクロエが、さらりと特訓をさらに過激な内容へと見直し始めたため、ルルーシャは涙の浮かぶ目を白黒させながら、がばりと顔を上げた。
「ど、どうしてそうなるの!? 今でさえ、いっぱいいっぱいなのに──」
そう言って立ち上がり、特訓も強制的に終わったため、普段食事を摂っている時のように机を挟んだフィオグラウスの正面に来る席へ移動しようとした。
だがそんな彼女の手首を、彼がやんわりと──それでいて「絶対に離さない」という強さを滲ませ掴んだ。
「え……フィオグラウス、さま……?」
驚いて顔を見れば、にこりと優しく微笑んでいるフィオグラウスの目が据わっている。
「三日間、この特訓をしながら私なりに考えていたんですが……やはり内容が不十分だと思うんです」
「ふ……不十分?」
嫌な予感がして背中にじわ、と汗が滲む。
「そうです。恐怖心の克服も大事ですが……私達には『誰が見ても仲睦まじい婚約者になる』という課題がありましたよね?」
「そ……それは……」
思わず引っ込めそうになったルルーシャの手を、フィオグラウスが「逃がさない」と言うように僅かに引き寄せた。
「なので、今度は私がルルーシャに食べさせてあげます。『仲睦まじい婚約者』なら、食べさせて貰ったなら、お返しが当たり前──ですよね?」
美しく微笑むその表情に、魔王状態の兄エドガーが重なり、ルルーシャは「はい、仰る通りです」と震えながらそろそろと再び着席してしまう。
「あ、これ若様の羞恥心が限界突破して開き直っちゃいましたね」
「まーいいじゃん、面白いし」
「お二人の仲が深まるなら、問題なしですね」
余程恥ずかしかったのだろう。
ヒソヒソと話す『見守り隊』を完全に無視し、ニコニコと笑みを深めたフィオグラウスは、給仕からさらりと奪い取った彼女用の前菜をフォークで刺して「どうぞ」と差し出してくる。
「ルルーシャ、口を開けて下さい」
「う……は……恥ずかしいです」
「私は頑張りました。ルルーシャも頑張りましょう?」
「で、でも」
「ね、口を開けて?」
甘く細めた瞳で覗き込むように見つめられ、こてんと傾げた首の動きに合わせさらりと揺れた雪のような髪に、視線が奪われる。
(こ……これも頑張らないと、終わらないの?)
顔を真っ赤にしたルルーシャが観念してそっと唇を開けば、満足そうに笑うフィオグラウスが、その口へ優しくフォークを差し入れた。
「ルルーシャ、美味しいですか?」
尋ねられ、首まで朱に染めたルルーシャは、ぎゅっと瞳を閉じて声を絞り出した。
「あ……味が全くわかりません……!!」
そのまま必死でもぐもぐと咀嚼するルルーシャに、フィオグラウスは幸せそうに目を細め、顔を赤くして破顔した。
「はあ……ダメだ。ルルーシャが可愛すぎる」
結局この日、フィオグラウスの圧に負けた彼女は、最後のデザートまで全てを彼の手で食べさせられ、全く夕食を食べた気がしなかった。




