第9話:領主の自覚なき焦燥と夜食の誘惑
領主館の執務室を支配していた静寂が、今のセドリックには酷く耳障りに感じられた。
机に広げられた領地の収支報告書。本来であれば、五分もあれば読み解き、適切な指示を書き込めるはずの書類だ。しかし、彼のペン先は一箇所に留まったまま、インクの染みを広げている。
「……おかしいな。視界の端に彼女が入るだけで、どうも思考の歯車が噛み合わなくなる。……ひどく落ち着かない気分だ」
セドリックは自嘲気味に呟き、眼鏡を外して目元を指先で押さえた。
脳裏にこびりついて離れないのは、昨夜、厨房で見かけたリリアーヌの姿だ。
佃煮を一心不乱に頬張り、頬を赤らめていたあの無防備な顔。そして、先ほど廊下ですれ違った際に見せた、刺々しくも期待に満ちた瞳。
コンコン、と。
そんな彼の思考を断ち切るように、遠慮のないノックが響く。
「失礼いたしますわ! あなた、またそんな陰気な部屋に引きこもって……。わたくしがわざわざ、お掃除のついでに様子を見てあげに来ましたわよ!」
扉を開けて入ってきたのは、噂の主、リリアーヌだった。
彼女は両手に包みを持っていた。それは四天王の一人、ザックスから「女神様への献上品」として託された、黄金色に輝く厚焼きの卵焼きだった。
「……リリーか。掃除は他の者に任せているはずだが」
「うるさいわね! わたくしがやりたいからやっているのですわ! ……それより、これを見なさいな。ザックスが、あなたの昨日の食べっぷり(カツサンド)に感動して、特別に焼いてくれたのですわ。……わたくしはもうお腹いっぱいですから、あなたが責任を持って処理しなさいな!」
リリアーヌは顔を背けながら、包みを机の端に置いた。
セドリックは、その包みから漂う出汁の香りと、リリアーヌの様子をじっと観察した。
彼女は「早く食べなさいよ」と言わんばかりに、上目遣いでこちらの反応を窺っている。
(……なぜだろうな。彼女が期待を込めた目で私の言葉を待っていると、胸の奥を直接掴まれたような、説明のつかない圧迫感を覚えるんだ。……酷く落ち着かないな)
セドリックは、心の中でその違和感を反芻した。
決して嫌な気分ではない。しかし、これまでの人生で培ってきたどの数式にも、どの哲学にも、この「圧迫感」の正体は記されていなかった。
彼は無意識に、包みを開け、一切れの卵焼きを口に運んだ。
「っ……」
「……どうかしら。不味いなら不味いと言えばよろしくてよ。わたくしが後で、ザックスに文句を言ってあげますから」
セドリックは、ゆっくりと咀嚼し、それを飲み込んだ。
出汁の旨味と、ほんのりとした甘み。それは昨日食べたカツサンドとはまた違う、心の内側にじんわりと広がるような優しさを持っていた。
「……美味しいな」
「……は、はぁっ!? な、……なによ、素直に認めちゃって。もっと嫌味の一つでも言うかと思いましたのに。……ま、まぁ、わたくしが選んだお店ですもの、当然ですわね!」
リリアーヌはぱぁっと顔を輝かせた後、すぐにツンとした態度を取り繕った。
だが、彼女の喜びは隠せていない。その嘘のつけない性格が、セドリックの思考をさらに乱していく。
「……リリー。君は、なぜこれほどまでに私に食べ物を勧めるんだ。……私に毒でも盛るつもりか?」
「な、なんですって!? 失礼ですわね! わたくしはただ、あなたが『燃料』だなんて悲しいことを言うから、少しでも人間らしい喜びを教えてあげようと思っただけで……。……べ、別にお礼が欲しくてやっているわけじゃありませんわよ!」
リリアーヌは裾を翻して、逃げるように部屋を出ていった。
独り残されたセドリックは、残った卵焼きを眺めながら、再びペンを執った。
だが、今度は先ほどまでとは違い、澱みなく文字が書き込まれていく。
「……理由が分からない。ただ、君が隣にいないだけで、何かが決定的に足りないような焦燥感に襲われるんだ。……これは一体、何の兆候だ?」
彼はその問いを紙の隅に小さく書き記し、すぐに塗り潰した。
それから一時間後。
領主館の門前に、再びあの母国の文官、ハンスが姿を現した。
しかも今回は、前回とは比べ物にならないほどの武装した兵士たちを引き連れている。
「セドリック閣下! 緊急事態です!!」
ハンスは執務室に転がり込むなり、悲鳴のような声を上げた。
「……ハンス殿。君は学習という言葉を知らないのか。また武装勢力云々を騒ぎに来たのか?」
「違います! 今度は、……今度は、エリオット王子殿下が、自らこちらへ向かっておられます!」
セドリックの手が、ぴたりと止まった。
「王子が? 自ら?」
「はい! 殿下は、閣下がリリアーヌ様を『洗脳』し、不衛生な下町の食卓に彼女を縛り付け、衰弱させていると確信しておいでです! 『我が愛しきリリアーヌを、隣国の非道な領主から救い出さねばならない!』と……既に国境を越えられました!」
セドリックの瞳に、これまでにない鋭い冷徹さが宿った。
彼は立ち上がり、窓の外――リリアーヌが中庭で幸せそうにパン屑を小鳥に分けている姿を、じっと見つめた。
(……救い出す? ……彼女がここでどれほど幸福そうに笑っているかも知らない男が、よくも言ってくれる)
セドリックの胸を焼いたのは、合理性とは対極にある「憤り」だった。
彼は初めて、自分の心に宿った感情の正体に、名前をつけそうになった。
独占欲。あるいは、守護の決意。
「……ハンス殿。王子に伝えなさい。……私の館には、彼の救うべき悲劇のヒロインなど一人もいない。……ここにいるのは、お代わりを三回してもまだ足りないと憤慨する、健康そのものの我がメイドだけだとな」
「ひ、ひぃっ! 閣下、目が、目が怖いですぞ!」
◇◇
一方、何も知らないリリアーヌは、空を見上げて呟いた。
「……明日は、ザックスのところで何を食べようかしら。……お肉かしら、それともお魚かしら……」
平和な食卓を脅かす嵐は、すぐそこまで迫っていた。




