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第10話:領主の計算と女神の鼻歌

 領主館の主執務室に、朝の光が差し込む。

 セドリック・フォン・アステリアは、いつものように日の出と共に机に向かい、領内の港湾整備計画書に目を通していた。本来であれば、彼にとって最も充実しているはずの時間だ。整然と並ぶ数字、論理的に構築された予算案、それらを一つひとつ精査し、最適解を導き出す作業は、彼にとっての至福であったはずだった。


 しかし、今日のペン先は、石畳を叩く雨音のように不規則なリズムを刻んでいた。


(……おかしい。昨夜の睡眠時間は六時間。体調に異常はない。だが、このページの三行目から先に、思考が進まないのは何故だ)


 セドリックは眼鏡を外し、眉間を指先で強く押さえた。

 原因は分かっている。

 先ほど、廊下の向こうから聞こえてきた「音」だ。


 メイドとして館内を回っているはずのリリアーヌが、機嫌よさそうに口ずさんでいた鼻歌。それは、母国の高貴な調べではなく、先日彼女が訪れたパン屋や定食屋で流れているような、野卑で、しかし驚くほど生命力に満ちた下町の旋律だった。


「ふん、ふふん……♪ 今日は、ザックスのところで、何を食べようかしら……♪」


 執務室の重厚な扉を抜けて届いたその声は、セドリックの張り巡らせた論理の防壁を、いとも容易く突き崩していった。

 

(……非合理的だ。婚約を破棄され、異国へ流された身でありながら、あのように明るい声を出すなど。本来、彼女は自身の境遇を嘆き、将来への不安に駆られ、食も細くなっているべきではないのか。……なぜ、あんなに楽しそうに『今日のご飯』のことばかり考えていられるのだ)


 セドリックは、自分の構築した人間心理のモデルに、リリアーヌという存在がどうしても当てはまらないことに、苛立ちに近い焦燥を感じていた。

 

 コンコン、と。

 控えめだが、どこか主張の強いノックが響いた。


「……リリーか。入りたまえ」


 扉を開けて入ってきたリリアーヌは、いつものように完璧なメイド服の着こなしで、しかし手に持っているのは、場違いなほど大きな箒だった。


「失礼いたしますわ、セドリック様。……あまりにこの部屋が陰気ですので、わたくしが特別にお掃除をして差し上げようと思いまして。感謝なさいな」


「……掃除なら、一時間前に終わっているはずだが。君がまた、自分の存在を誇示するために無駄な労働を増やすのは、私にとって効率的ではない」


 セドリックは、あえて冷徹な声を出し、彼女を「ただの預かり物」として扱うよう、自分に言い聞かせた。

 リリアーヌは、一瞬だけむっとしたように唇を尖らせたが、すぐに「ツン」とした表情を取り戻した。


「相変わらず、可愛げのない男ですこと。……まぁいいわ。それより、セドリック様。あなた、お昼はどうされるおつもり? いつもの、あの味気ない『栄養の塊』みたいな食事をなさるのかしら?」


「当然だ。私は食事に時間をかけたくない。シェフには、最短時間で最大限の熱量を得られるメニューを組ませている」


「……信じられませんわ。そんな、鉄屑に油を注すような生活。わたくし、お掃除のついでに、厨房の余り物で『まかない』でも作ってあげようかと思いましたのに。わたくしの腕前を知れば、あなたのその貧相な価値観も、少しはマシになりますわよ?」


 それは、彼女なりの歩み寄りだったのかもしれない。

 しかし、セドリックの心には、先ほどの「自覚なき焦燥」が影を落としていた。

 ここで彼女の差し出すものを口にすれば、自分の内側にある「説明のつかない圧迫感」は、さらに正体不明の何かへと変質してしまうのではないか。その未知の恐怖が、彼に拒絶の言葉を選ばせた。


「不要だ。私は館のシェフの管理下にある。君の素人料理で、私の午後のパフォーマンスを不安定にさせるわけにはいかない。……下がってくれ。私は忙しい」


 リリアーヌの動きが、ぴたりと止まった。

 彼女の手に握られた箒が、わずかに震える。

 彼女はゆっくりと顔を上げると、そこには、いつもの傲慢な笑みではなく、どこか傷ついたような、しかしそれを必死に怒りで塗り潰そうとする瞳があった。


「……ふ、ふん! そうですわよね! わたくしも、わざわざあなたのような偏屈な男に、大切なお米を分けてあげるなんてどうかしていましたわ! 一生、その乾燥したパンと一緒に、数字にまみれてお死になさいなっ!!」


 リリアーヌは叫ぶように言い捨てると、裾を翻して部屋を飛び出していった。

 

 バタン、と。

 扉が閉まり、執務室は再び元の静寂を取り戻した。

 

 本来であれば、これで目的は達せられたはずだ。

 ノイズは去り、彼は再び、完璧な合理性の世界へと戻れるはずだった。

 

(……ああ、これでいい。追い出したのは合理的だ。私の時間を守るためだ)


 セドリックは再びペンを執った。

 しかし、どういうわけか、紙の上の文字が歪んで見える。

 先ほどまで耳に届いていた陽気な鼻歌が消えた後の静寂が、まるで冷たい水のように、足元からじわじわと這い上がってくるような錯覚。


(……なぜ、こんなに集中できない。……なぜ、胸の奥が、これほどまでに不規則に騒がしいのだ)


 彼は、自分の計算式に致命的なエラーが生じていることを自覚せざるを得なかった。

 「リリアーヌの不在」という要素が、これほどまでに自分の精神的パフォーマンスを低下させるとは、理論上のどのモデルにも存在しなかった。

 

 彼は窓の外に目を向けた。

 遠く、国境付近の空には、不穏な雲が立ち込めている。

 エリオット王子の軍勢が、日に日にその距離を縮めているという報告。

 本来であれば、領主としてその外交的、あるいは軍事的な対策に全知能を注ぐべき時だ。

 なのに、今のセドリックを支配しているのは、国を守る義務感ではなく、去り際の彼女の、あの「寂しそうな横顔」への、言いようのない後悔だった。


「……不合理だ。……あまりに、不合理だ……」


 セドリックは、白紙の書類にそう書き記し、すぐに真っ黒く塗り潰した。

 

 一方、何も知らない城下町では。

 四天王の一人、ザックスが、リリアーヌの帰りを今か今かと待ちわびていた。

「今日こそは、あの『特製・黄金あんかけ飯』で、女神様を唸らせてやるんだ……!」

 

 館の中の静寂と、下町の熱狂。

 そして、北から迫る王子の「善意」という名の嵐。

 それらが混じり合う中心で、リリアーヌは今、憤りとともに、さらに大きな「空腹」を感じ始めていた。


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