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第11話:女神の厨房占拠作戦


「――なんですのよ、あの男! 一生、パサパサのパンと数字だけ食べていればよろしいんですわ!」


 領主館の長い廊下を、リリアーヌはドレスの裾を激しく翻して歩いていた。

 先ほど、執務室でセドリックに「まかない」の提案を冷たく拒絶された屈辱が、まだ胸の奥で火を噴いている。

 親の知人だというから、少しは情のわかる男性かと思えば、蓋を開けてみれば血の代わりにインクでも流れていそうな冷血漢。せっかく、ザックスから教わった「美味しいお米の炊き方」を披露してあげようと思ったわたくしが馬鹿でしたわ。


 ぐぅ、と。

 憤慨するリリアーヌの腹部から、無慈悲な音が鳴り響く。


「……な、なによ。あなたまでわたくしを馬鹿にするの? 分かっていますわよ、あんな小鳥の餌みたいな朝食じゃ、怒る体力すら続きませんことよ!」


 リリアーヌは、館の「お上品」すぎる食事に改めて怒りを募らせた。

 公爵令嬢として、食事の作法は完璧に叩き込まれている。だが、この隣国で「お代わり自由」という救済を知ってしまった今のわたくしにとって、空腹を抱えたまま淑女の面らをするのは、死よりも辛い苦行だった。


 その時だった。

 館の正面玄関の方から、何やら野太い怒鳴り声と、聞き覚えのある騒がしい足音が聞こえてきたのは。


「おい、どけってんだ! 俺たちは女神様に用があるんだよ!」

「そうだ! あんな偏屈領主の顔を拝みに来たんじゃねえ、リリーお嬢様に肉を届けに来たんだ!」


 リリアーヌが驚いて玄関へ向かうと、そこには案の定、定食屋のザックス、肉焼き屋のバネッサ、そしてパン屋のルークが、館の衛兵たちを押し退けて陣取っていた。

 彼らはリリアーヌの姿を見つけるなり、ぱぁっと顔を輝かせた。


「女神様! ……なんだか、昨日より少し元気がねえじゃねえか。やっぱり、ここの不味い飯(※注:最高級宮廷料理)のせいだな!?」


「ザ、ザックス! あなたたち、こんなところまで何をしにいらしたの!?」


「決まってるだろ、新作の試食だよ。……ほら、バネッサが最高の牛すじを仕入れたんだ。ルークも特製の出汁用パン粉を持ってきた。こいつを使って、館の厨房でドカンと一発、女神様に相応しいメシを作ってやろうと思ってな!」


 リリアーヌの心に、一筋の光明が差し込んだ。

 セドリックに拒絶され、行き場を失っていた「食への情熱」が、四天王たちの乱入によって再点火される。


「……ふ、ふん。あなたたち、わたくしがいないと何もできないんですのね? ……いいわ。あんな偏屈男の館に、本当の『満足』というものを教えてあげようではありませんの! わたくしに続きなさい!」


 リリアーヌは、衛兵たちの制止を片手で制し、三人の荒くれ者を従えて厨房へと突き進んだ。

 本来、公爵令嬢が厨房に立つなど言語道断。だが、今の彼女は「グルメの女神」であり、この館のメイド(仮)なのだ。


 厨房にいたお抱えシェフたちは、突然現れた「下町の料理人」と「鼻息の荒い令嬢」に腰を抜かさんばかりに驚いたが、リリアーヌの放つ圧倒的な威圧感――王妃教育によって磨かれた「采配の力」に抗うことはできなかった。


「そこのあなた、火を強めなさい! ザックス、お米は研ぎすぎないと言ったでしょう! バネッサ、その牛すじの脂身は半分残して……そう、それが旨味になるのよ! ルーク、隠し味にそのパン粉を少し煎って入れなさい!」


 リリアーヌの的確な指示が飛ぶ。

 ガサツだった四天王たちの動きが、リリアーヌの言葉という名の魔法によって、一つの巨大な歯車のように噛み合い始めた。

 厨房には、高貴な館には到底相応しくない、暴力的なまでに芳醇な醤油と肉の香りが立ち込めていく。


 そして一時間後。

 完成したのは、大振りの丼に溢れんばかりに盛られた白米と、その上を覆い尽くす、黄金色の「牛すじあんかけスタミナ炒め」だった。


「できたわ……! これこそ、館の高級食材と、下町の魂が融合した、究極の『まかない』ですわ!」


「最高だ、お嬢様! あんたの指示通りに出汁を利かせたら、香りが三倍に膨らみやがった!」


 リリアーヌは四天王たちと、今にもハイタッチをせんばかりの勢いで喜びを分かち合った。

 彼らが差し出したスプーンを手に取り、一口。

 

「っ……!! 美味しい……! 美味しいですわ、これ! お米が、お米がまるでお肉を抱きしめているようですわ……!」


 リリアーヌは頬を染め、無我夢中で丼をかき込んだ。

 淑女の作法など、今の彼女の辞書には存在しない。ただ、この美味しさを全力で享受することこそが、料理人たちへの最大の礼儀だと知っているから。


 ――ガタッ。


 厨房の入り口で、小さな物音がした。

 リリアーヌが視線を上げると、そこには、騒ぎを聞きつけたセドリックが、いつもの無表情で立ち尽くしていた。

 

 普段なら「規律を乱すな」と冷たく言い放つはずの男だ。

 リリアーヌは、口元に黄金色のあんをつけたまま、不敵に笑って見せた。


「……なによ、セドリック様。文句があるなら仰いなさいな。わたくし、あなたの許可なんて待っていられませんでしたのよ。……それとも、あまりに美味しそうな香りに誘われて、合理的な栄養摂取をしにいらしたのかしら?」


 リリアーヌの挑発に、四天王たちも「そうだそうだ!」「旦那、一口食ってみろよ!」と囃し立てる。

 

 だが、セドリックは何も言わなかった。

 彼はリリアーヌの、かつて見たことがないほど活き活きとした、そしてザックスたちと親しげに笑い合うその姿を、ただじっと見つめていた。


(……なんなのかしら、この人。怒るわけでもないし、かと言って食べるわけでもない……)


 リリアーヌの視点から見て、今のセドリックは、まるで壊れた機械のように、あるいは何か言いかけて飲み込んだ子供のように、所在なげに視線を彷徨わせている。

 

「……君たちが何をしようが、私の知ったことではない。……ただ、火の後始末だけは、合理的に行いたまえ」


 それだけを言い残し、セドリックは逃げるようにその場を去っていった。

 

「……なんなのかしら、やっぱり変な男ね。……まぁいいわ! ザックス、お代わりを持ってきなさい! 今日はわたくし、五杯は食べられそうですわよ!」


「おうよ、女神様!」


 賑やかな厨房の熱気は、館の冷たい空気を確実に溶かしていた。

 去っていくセドリックの背中を、リリアーヌは「不思議な人ね」と一瞬だけ目で追ったが、すぐに目の前の「黄金の丼」へと意識を戻した。

 

 彼女にはまだ分からない。

 自分が誰かと笑い合っている姿が、どれほどあの合理的すぎる男の胸を、説明のつかない不快感で掻き乱しているのか。

 

 嵐の前の、最高に美味しい昼下がり。

 リリアーヌの胃袋と心は、かつてないほどの満足感で満たされていた。


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