第12話:毒見役という名の特権
領主館に差し込む朝日は、今日も相変わらず無機質で、それでいてどこか刺々しい。
リリアーヌ・ド・グランヴェルは、メイド服の襟元を整えながら、朝食の席で向かいに座る男――セドリックを、扇子越しにじっと睨みつけていた。
昨日の「厨房占拠事件」の後だ。てっきり、規律を乱したことに対して、理路整然とした説教の洗礼を受けるものだと身構えていたのだが。
「……リリー。今日から、君が館の外で口にするもの、および持ち込む全ての食材は、事前に私が検分を行うことにした」
「……はぁ?」
リリアーヌは、紅茶のカップをソーサーに戻した。カチャリ、と尖った音が響く。
「検分ですって? 何を仰っているのかしら、この偏屈領主様は。わたくしがどこで何を食べていようと、あなたの知ったことではないはずですわよ。昨日、ご自分でそう仰ったではありませんの!」
「状況が変わった。……君の母国の王子が、実力行使も辞さない構えで国境に迫っている。万が一、彼らが君の食事に『特殊な工作』を施していた場合、私の管理責任が問われるからね。合理的判断として、私が先に毒見をする」
セドリックは、眼鏡の奥の瞳を一ミリも動かさず、淡々と、まるで明日の天気予報でも告げるような口調で言い切った。
(工作? 毒見? ……何を馬鹿なことを。あの脳内がお花畑の王子が、そんな手の込んだことをするはずがありませんわ!)
リリアーヌは「ツン」と鼻を鳴らした。
どうせ、わたくしの自由を制限するための嫌がらせに決まっている。あるいは、昨日わたくしが四天王たちと楽しげに食事をしていたのが、規律を重んじる彼の逆鱗に触れたに違いない。
「……ふん! 勝手になさるがいいわ。どうせ、あの方たちの料理の味もわからないような鈍感な舌には、毒も薬も同じでしょうから!」
しかし。
その日の午後、リリアーヌは自分の考えが甘かったことを思い知らされることになった。
外出許可を得て、いつものように意気揚々と城下町へ繰り出したリリアーヌ。彼女の背後には、なぜか馬にも乗らず、涼しい顔でついてくるセドリックの姿があった。
そして、事件は三人目の四天王・ルークのパン屋で起きた。
「よう、女神様! いいところに来た。今日焼き上がった『究極の厚切りフレンチトースト』だ! 卵と蜂蜜に一晩浸けて、じっくり焼き上げた自信作だぜ!」
「あら……! なんて甘くて、背徳的な香りがしますの……! ルーク、早くそれをわたくしの前に――」
リリアーヌが目を輝かせ、フォークを伸ばそうとした、その時だ。
横から伸びてきた白い、しかし力強い指先が、皿をスッと自分の方へ引き寄せた。
「……毒見だ。待て」
「なっ……! あなた、何をして――!」
リリアーヌの抗議も虚しく、セドリックは一切れのフレンチトーストを、あろうことかリリアーヌが齧り付くはずだった場所から、贅沢に一口分切り取った。
そして、それを無表情のまま口に運ぶ。
(……あ、……わたくしの、一番美味しそうな、角のカリカリした部分が……っ!)
リリアーヌは絶句した。
セドリックは、ゆっくりと、念入りに咀嚼している。
彼の喉が上下し、飲み込まれるのを、リリアーヌは「信じられない」という顔で見つめていた。
「……セドリック様。……美味しいですわよね? 毒なんて、ありませんわよね?」
「……異常はない。……が、まだ安心はできないな。成分が安定しているか、もう一口確認する必要がある」
「二口も食べるつもりですの!? この卑しい男っ!!」
リリアーヌは顔を真っ赤にして叫んだ。
しかし、セドリックは二口目を、今度は蜂蜜が一番染み込んでいる中央部分から奪い去った。
リリアーヌの目から見て、無表情を貫いているはずのセドリックの耳の裏が、ほんの僅かに赤らんでいるように見えたのは気のせいだろうか。
(……なによ、なんなのよこの人! 毒見なんて建前で、本当はわたくしの認めた味を盗み食いしたいだけなんじゃないかしら!?)
その後のパトロールも、散々だった。
バネッサの新作串焼きも、ザックスの『黄金あんかけ』の試作も、リリアーヌが一口食べる前に、必ずセドリックが「安全確認」という名目で、一番美味しいところを先に奪っていくのだ。
「……ふん! もういいですわ! そんなに食べたいなら、全部差し上げますことよ! あなたは一生、わたくしの食べかけでも食べていればよろしいんですわ!」
憤慨して館へ戻る道中、リリアーヌはプンプンと肩を怒らせて歩いていた。
だが、ふと、隣を歩くセドリックを見上げ、妙な違和感に襲われる。
彼は相変わらず無表情で、視線は前方に固定されている。
だが、その歩みは、朝よりもどこか軽やかで、彼が纏う「鉄壁の合理性」のオーラが、ほんの少しだけ、日差しに溶けたバターのように緩んでいるような気がした。
(……変な男。……わたくしの食べ物を奪っておいて、なぜあんなに満足げなんですの? 合理、合理的と言いながら、やっていることはただの食いしん坊の嫌がらせではありませんの)
リリアーヌは、彼が「毒見」と称して自分と同じものを口にし、同じ香りを共有していることに、言いようのない気恥ずかしさを覚えた。
それは、エリオット王子との形式的な食事会では一度も感じたことのない、妙に距離の近い、不快ではないが落ち着かない「熱」だった。
「……明日は、絶対に一口もあげませんからね!」
リリアーヌは捨て台詞を残し、館の階段を駆け上がった。
一方、リリアーヌの視界から消えた後の玄関ホール。
セドリックは、立ち去った彼女の背中を、一秒だけ長く見つめていた。
彼の手のひらには、先ほど彼女に手渡したフレンチトーストの温もりが、まだ微かに残っている。
「(心の声)……毒見、か。……我ながら、随分と不合理な言い訳を選んだものだ」
セドリックは、自分の内側にある「独占欲」という名の不確定要素に、未だ名前をつけられずにいた。
そんな二人の「奇妙な共食(毒見)」の裏で。
隣国の国境検問所では、一触即発の事態が起きていた。
「通せ! 我が愛しきリリアーヌが、あの不気味な領主に飢えさせられているのだ! 今すぐ助け出さねば、彼女はガリガリに痩せ細ってしまう!」
白馬に跨り、輝く鎧を纏ったエリオット王子が、善意に満ちた叫びを上げ、国境の兵士たちを困惑させていた。
嵐は、すぐそこまで来ていた。
リリアーヌの胃袋が、そしてセドリックの理性が、本当の試練に直面する時は近い。




