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第13話:深夜のおにぎり外交


 領主館の夜は、静まり返った湖の底に似ている。

 寝室の窓から差し込む月光は冷たく、リリアーヌ・ド・グランヴェルは、ふかふかのベッドの中で何度も寝返りを打っていた。


(……眠れませんわ。どうしても、眠れませんことよ!)


 原因ははっきりしている。昼間、あの偏屈領主セドリックに、楽しみにしていたパトロールの獲物たち――特にあの厚切りフレンチトーストの「一番美味しい角の部分」を毒見と称して奪われたことへの怒りだ。

 怒りは神経を昂ぶらせ、昂ぶった神経は、無慈悲なほどに胃袋を刺激する。

 昼間あんなに食べたはずなのに、わたくしの胃袋は、既に明日への準備を始めてしまっているようだった。


「……ふん。メイドたるもの、主人の厨房に不審者がいないか見回る義務がありますわ。ええ、そうですわ。決して、お腹が空いたからではありませんことよ」


 自分に言い訳をしながら、リリアーヌは薄手のガウンを羽織り、自室を抜け出した。

 手慣れた足取りで、深夜の厨房へと向かう。

 だが、調理場の入り口に辿り着いた瞬間、扉の隙間から漏れ出す微かな明かりに、リリアーヌは足を止めた。


(……先客? 泥棒かしら!?)


 息を潜めて中を覗き込む。

 そこにいたのは、泥棒などという可愛げのある存在ではなかった。

 袖を捲り上げ、眼鏡を少しずらしたまま、山積みの書類を調理台に広げてペンを走らせている男。この館の主、セドリックである。

 彼の傍らには、一口もつけられていない冷めた紅茶と、乾燥してひび割れたような無味乾燥なビスケットが置かれていた。


「……あなた。そんな不味そうなものを夜食にしているから、あんなに性格が捻じ曲がるんですのよ」


 リリアーヌが影から姿を現すと、セドリックは驚いた様子もなく、ただペンを止めて顔を上げた。


「……リリーか。不眠症なら、温めたミルクでも飲んで寝ることを勧めるよ。……それとも、深夜のつまみ食いかね?」


「失礼ですわね! わたくしは、あなたのあまりに『不合理』な食事内容を正しに来て差し上げましたのよ!」


 リリアーヌは、セドリックの隣に置かれたビスケットを指差した。

 それは、長期保存だけを目的とした、噛めば口の中の水分をすべて奪い去るような代物だ。


「……セドリック様。それ、燃料ですらありませんわ。ただの乾燥した木屑ですことよ。……見ていられませんわ。わたくしが、本当の『夜食』を教えて差し上げますわよ!」


「……夜食? 手間をかけるのは非効率――」


「黙って座っていなさいな!」


 リリアーヌは、公爵令嬢らしからぬ勢いでセドリックを黙らせると、手際よく厨房を動き回った。

 大きな釜を開けると、夕食の残りの、まだ温かみが残る白米が顔を出す。

 彼女は手を清めると、ザックスから教わった「魂の握り方」を思い出した。


「いいですか、おにぎりというものは、掌の中に小鳥を包むように、優しく、けれど芯を持って握るものですのよ……」


 無意識に、ザックスの口真似をしながら、リリアーヌは白米を掌に取った。

 具材は、以前セドリックに「血圧を上げるだけ」と馬鹿にされた、あの実山椒の佃煮だ。

 熱い米が、掌をじりじりと焼く。だが、その熱さこそが、今を生きている証のように感じられた。


 数分後。

 セドリックの前に置かれたのは、不格好に歪んだ、しかし真っ白に輝く二つのおにぎりだった。


「……不規則な三角形だな。計測したような均一性がない」


「文句を言うなら、わたくしが食べてあげてもよろしくてよ?」


「……いや。毒見の責任がある」


 セドリックは、その大きな手で、不器用におにぎりを取り上げた。

 リリアーヌは、自分の隣に座り、おにぎりを眺める彼の様子を、盗み見るように観察した。

 

「……セドリック様。あちらでは、おにぎりなんて、決して許されませんでしたわ」


「母国のことか?」


「ええ。食事は常に、誰かに見られ、評価され、作法を競うための戦場でした。……形を崩して、手で掴んで、頬張る。そんな幸せが、この世にあるなんて、わたくし、隣国に来るまで知りませんでしたの」


 ふと漏らした本音に、リリアーヌは自分で驚き、慌てて「ツン」と顔を背けた。


「……ま、まぁ、あんなバカ王子の隣で食べるより、ここであなたを毒殺する計画を立てながら食べる方が、百倍美味しいですわ!」


 セドリックは、リリアーヌの言葉を否定しなかった。

 彼は黙っておにぎりを一口、大きく頬張った。

 

 モグ、モグ、と。

 静かな厨房に、咀嚼する音だけが響く。

 

「……どうかしら。やっぱり、不合理な味ですこと?」


「……いや。……悪くないな。いや、私のこれまでの人生の食事の中で、最も正解に近いかもしれない」


「……はぁっ!?」


 リリアーヌは絶句した。

 あの合理主義の塊のような男が、わたくしの握った、こんな不格好なおにぎりを「正解」だと言ったのだ。

 

 セドリックの大きな手が、最後の一口を大切そうに口へ運ぶ。

 その指先に、米粒がついているのを見て、リリアーヌは胸の奥が不規則に跳ねるのを感じた。


「……な、なによ。米粒、ついてますわよ。……取ってあげても、よろしくて……」


 伸ばしかけたリリアーヌの手が、セドリックの頬に触れそうになる。

 その瞬間、彼の眼鏡の奥にある瞳が、真っ直ぐにリリアーヌを射抜いた。

 冷徹な観察者の目ではない。そこには、言葉にできない、熱を持った「困惑」が揺らめいていた。


「っ……!」


 リリアーヌは、弾かれたように手を引っ込めた。


「……ふ、ふん! 勘違いしないでちょうだい! ただの練習台ですわよ! わたくし、メイドとして、手の汚れない握り方を研究したかっただけなんですらねっ!」


 リリアーヌは、顔から火が出るほどの熱さを感じながら、ガウンを翻して厨房を飛び出した。

 

 廊下を駆け抜けながら、彼女は一度だけ振り返った。

 暗い厨房の入り口から見えたのは。

 残されたセドリックが、空になった皿の上を見つめ、自分の握ったおにぎりの「感触」を確かめるように、ゆっくりと手を握り締めている姿だった。


(……変な人。……本当に、変な男ですわ)


 リリアーヌは、自分の胸の高鳴りを「深夜に炭水化物を食べたせいによる心拍の上昇」だと、どこかの誰かのような理屈で誤魔化しながら、自室へと逃げ帰った。

 

 その夜、彼女がどんな夢を見たかは、誰にもわからない。

 

 一方で。

 国境付近の宿営地。

 エリオット王子は、月明かりの下で剣を磨き、決意の表情を浮かべていた。


「待っていてくれ、リリアーヌ。今、この僕が、君をその地獄から救い出してみせる。……例え、隣国の領主が、君に呪いのおにぎりを食べさせていたとしても、僕の愛で浄化してみせるからね!」


 王子の「善意」という名の猛毒が、すぐそこまで迫っていた。

 

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