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第14話:海の四天王と女神の裁定


 昨晩の出来事は、きっと月光が見せた一時的な幻に違いない。

 リリアーヌ・ド・グランヴェルは、朝食の席でセドリックと顔を合わせるなり、激しくそう自分に言い聞かせていた。


(……わたくしが握った不格好なおにぎりを、あの方が『正解』だなんて。……思い出すだけで、顔から火が出そうですわ!)


 セドリックはといえば、相変わらず無表情で書類に目を落としている。だが、その手元にある紅茶を啜る所作が、昨夜おにぎりを口に運んでいた時の指先の動きと重なって見えてしまい、リリアーヌは慌てて視線を逸らした。


「……リリー。顔が赤いようだが、昨夜の不規則な栄養摂取が原因で知恵熱でも出したか?」


「だ、誰が知恵熱ですって!? 失礼ですわね! わたくし、今日こそはあなたに一口も毒見させないための作戦を練っていただけですわ!」


 精一杯のツンを投げつけるリリアーヌだったが、その時、館の庭の方から、昨日の料理人たちの怒鳴り声とは一味違う、潮の香りを纏った瑞々しい叫びが響き渡った。


「――おーい! 陸の連中ばかりに女神様を独り占めされてたまるかよ! 港の意地を見せに来たぜ!」


 リリアーヌが驚いて窓の外を見ると、そこには、天秤棒を担いだ一人の少年が立っていた。

 日に焼けた肌に、若々しい瞳。名はトト。この領地でも指折りの、魚の目利きとして知られる少年である。


「あら。今度は魚屋かしら? ……ふん、わたくしの胃袋を射止めるのが、どれほど高い壁か分かっていないようね」


 リリアーヌは裾を翻し、庭へと降り立った。

 トトは彼女の姿を見るなり、担いでいた木箱をドサリと置いた。中には、まだ跳ね回るほど活きのいい、銀色に輝く真鯛や、深い青色の肌をした魚たちが並んでいた。


「女神様! ザックスの親父たちから聞いたぜ。あんたは『お米に合うか』で味を決めるんだろ? だったら、この海の宝物を食ってみな!」


 トトは手際よくナイフを取り出すと、真鯛を一瞬で捌いてみせた。

 現れたのは、透き通るような桜色の身。

 母国の魚料理といえば、バターで焼き固め、濃厚なクリームソースで素材の味を塗り潰すのが常識だった。だが、目の前のそれは、命の輝きをそのまま形にしたような清冽さを放っている。


「……なによ。そんな生々しいもの、わたくしが食べると思って? ……けれど、その、……あまりに綺麗だから、毒見くらいはしてあげてもよろしくてよ」


 リリアーヌが指先で一切れを摘もうとした、その瞬間だ。


「……待て。海洋生物の生食は、寄生虫や細菌のリスクが高い。私が先に検分する」


 どこから現れたのか、セドリックがスッと横から入り込み、トトが差し出した一番脂の乗った部位を、ひょいと口に運んだ。


「ちょっとぉ!? あなた、今日は執務室に引きこもっているんじゃありませんでしたの!?」


「……緊急の安全確認だ。君が腹を下しては、館のメイド業務が滞る不合理が生じるからね」


 セドリックは相変わらずの鉄面皮で、ゆっくりと魚を咀嚼した。

 リリアーヌは、彼が「ん……」と、ほんの僅かに眉を動かすのを見逃さなかった。


「……どうかしら。毒なんて、ありませんわよね?」


「……異常はない。だが、この透明度と弾力……。醤油という発酵調味料との相性を確認せねば、最終的な安全性は保証できないな。トト、もう一切れ寄越したまえ」


「二口目どころか、調味料まで指定して食べるつもりですの!? この……この、ちゃっかり領主様っ!!」


 リリアーヌの憤慨を他所に、セドリックはザックスから借りたという特製の小皿を取り出し、刺身に醤油を数滴垂らして、実に美味そうに(無表情だが)平らげた。


「……リリー。この魚は、君の言う『お米』との親和性が極めて高いようだ。……トト。君を四人目の候補として、暫定的に承認する」


「よっしゃあ! 女神様と領主様の公認だ!」


 リリアーヌは、自分の番を待たされている間に、セドリックがちゃっかりと自分専用のご飯茶碗まで用意させていることに気づき、愕然とした。


「……あなた、いつの間に自分のお米まで持ってきたんですの? 『食事は燃料』だったはずでは!? 今のあなたは、ただの食いしん坊の便乗犯ですわよ!」


「失礼な。これは『毒見の精度を高めるための、触媒としての白米』だ。合理的処置だよ」


「……ああ言えばこう言う……っ!」


 リリアーヌは怒りを忘れて、呆れ果ててしまった。

 だが、セドリックが自分の認めた美味しいものを、彼なりの不器用な理屈で――しかし確実に楽しもうとしている姿は、どこか昨夜のおにぎりの余韻に繋がっているようで、不思議と嫌な気はしなかった。


「……もう、勝手になさるがいいわ。トト! わたくしには、その真鯛を厚く切って、炊き立てのご飯の上に乗せた『女神特製・海鮮丼』を大盛りで作らせなさい! あ、この際ですから、セドリック様の分も……少しだけ、多めに作ってあげてもよろしくてよ」


「合点だ、女神様!」


 太陽の下、新鮮な魚の甘みと醤油の香りが、庭いっぱいに広がる。

 リリアーヌは、自分の隣で黙々と「毒見」を続けるセドリックの横顔を見つめながら、ふと思った。


(……この人は、わたくしが美味しいと言うものを、本当は信じ始めているのではないかしら)


 冷徹な領主様の、少しだけ緩んだ頬。

 リリアーヌは「ふん、単なる気のせいですわ」と自分を納得させ、運ばれてきた海鮮丼へと、盛大に箸を伸ばした。


 その光景を、館の塀の外、高い木の上から監視する影があった。

 母国の隠密部隊――エリオット王子の命を受けた斥候である。


「報告……リリアーヌ様は、領主と共に『謎の生肉』を貪る儀式に参加中。領主は彼女を監視し、その食事のほとんどを奪うことで精神的圧迫を与えている模様……。殿下、救出を急がれたし!」


 歪んだ報告が、嵐を加速させる。

 だが、今のリリアーヌにとって、最大の敵は迫り来る王子ではなく、自分の海鮮丼をまたしても「毒見」しようと狙っている、隣の男の箸であった。


「……セドリック様! その縁起物の鯛だけは、絶対に渡しませんわよ!!」


「……毒見だと言っているだろう。動くな」


 賑やかな攻防戦は、城下町の海鮮市場へと、新たな経済の波を広げていくのであった。



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