第15話:盾になる背中
それは、あまりに唐突に、そして暴力的に訪れた。
庭に並べられたトト自慢の魚料理に舌鼓を打ち、セドリック様とどちらが大きな鯛の身を食べるかで小競り合いをしていた、その最中のことだ。
――ドォォン!
館の正面門が力任せに開かれる音が響き、石畳を叩く激しい蹄の音が静寂を切り裂いた。
リリアーヌ・ド・グランヴェルは、口に運ぼうとした刺身を落としそうになりながら、振り返った。そこにいたのは、母国の紋章――エリオット王子の直属を示す白百合の旗を掲げた、十数名の重装騎士たちだった。
「……な、なにごとですの? ここは隣国の領主館ですわよ。礼儀というものを知らないのかしら!」
リリアーヌは立ち上がり、いつものようにツンと胸を張った。だが、現れた騎士たちのリーダー格――かつて王宮で見かけたことのある、生真面目すぎて融通の利かない騎士団長・ボリスが、鞘から剣を半分抜き放ちながら、歪んだ正義感を瞳に宿して叫んだ。
「リリアーヌ様! ようやく、ようやく救出に参りましたぞ! エリオット殿下が案じておられます。隣国の非道な領主によって監禁され、不浄な生肉を食わされるという地獄のような日々……さあ、今すぐこちらへ! 我らが貴女をお守りいたします!」
「……はぁっ!? 地獄? 監禁? 何を仰っているの、この鉄屑頭は! わたくし、今からデザートのプリンを食べる予定なんですのよ! 邪魔をしないで頂戴な!」
リリアーヌは激昂したが、騎士たちは聞く耳を持たなかった。彼らにとって、リリアーヌの怒りは「隣国の領主に洗脳された悲鳴」にしか聞こえていないようだった。
「やはり、精神に異常をきたしておられる……! 閣下、そこの冷徹な男からリリアーヌ様を引き離せ! 力ずくでも連れ戻すのだ!」
「や、やめて……! 触らないで頂戴!」
一人の騎士が、汚れた篭手の手をリリアーヌの腕に伸ばした。
かつての婚約破棄の夜の恐怖が、リリアーヌの脳裏を過る。周囲が全員敵に見えた、あの孤独な絶望。
思わず身を竦め、目を閉じた、その瞬間だった。
――バサリ、と。
リリアーヌの視界が、漆黒の外套によって遮られた。
目の前に現れたのは、いつもの事務的な無機質さを脱ぎ捨て、氷のような冷気を纏った男の背中だった。
「……私の許可なく、我が館のメイドに触れることは、隣国への宣戦布告と見なすが。よろしいかな?」
セドリックの声は低く、そして驚くほど静かだった。だが、その静寂は、爆発を待つ火山のような圧倒的な圧力を孕んでいた。
彼は騎士の腕を、まるで鉄の枷のように掴んで制止している。
「貴様、何のつもりだ! 彼女は我が国の公爵令嬢だぞ!」
「いいえ。書類上、彼女は我が館で正式に雇用されたメイドであり、このアステリア領に居住権を持つ住民だ。……不当な婚約破棄によって放り出された彼女を、人道的配慮に基づき、亡命者として受け入れた。……それを強引に奪い去ろうとする行為は、国際法上の略奪、および主権侵害に当たる」
セドリックは、懐から一枚の書面を――それは以前、リリアーヌが気づかないうちに彼が作成していた雇用契約書だった――取り出し、騎士たちの鼻先に突きつけた。
「今すぐその汚れた手を離し、国境まで引き返しなさい。さもなければ、君たちの首を隣国との境界線に等間隔で並べるための算術を、今この場で開始するが……。合理的判断を期待してもいいかな?」
セドリックの眼鏡の奥の瞳には、一ミリの慈悲もなかった。
彼はただ、領主として、管理責任者として、邪魔者を排除するための「最適解」を口にしているだけのように見えた。
だが、その背中越しに伝わってくる熱が、震えるリリアーヌの心を不思議なほど落ち着かせていった。
「……う、ぐぬぬ……! 覚えておれ! エリオット殿下の本隊が、すぐそこまで来ているのだ! あの方が来れば、貴様のような冷血漢など粉砕してくれるわ!」
騎士たちは、セドリックが放つ、言葉の刃と圧倒的な殺気に気圧され、捨て台詞を残して撤退していった。
蹄の音が遠ざかり、再び庭に静寂が戻る。
セドリックはゆっくりと振り返った。
その表情は、いつもの「無関心」に戻っていたが、リリアーヌの目には、彼の呼吸がわずかに乱れているように見えた。
「……リリー。怪我はないか」
「……あ、……ええ。大丈夫ですわ。……ふん、わたくし一人でも、あんな鉄屑連中、追い払ってみせましたのに。……余計な事をしてくれましたわね」
いつものツンデレを装いながらも、リリアーヌの声は微かに震えていた。
セドリックは、黙ってリリアーヌの手を――先ほど騎士に掴まれそうになった方の手を――取り、その汚れを自分のハンカチで丁寧に拭った。
「……手が震えているぞ。……毒見は、もう十分だろう。これ以上、君の体調に不条理な変化が起きるのは、私の管理計画にとって不利益だ」
「……な、なによ、それ……。相変わらず、理屈っぽい男ですこと」
リリアーヌは顔を真っ赤にして手を引っ込めた。
だが、彼女の指先は、無意識にセドリックの服の袖をぎゅっと掴んでいた。
セドリックの背中が、あんなに大きくて、あんなに頼もしいものだなんて、あの日、エリオット王子の隣にいた時には、一度も気づかなかった。
(……この人は、わたくしを『預かり物』だと言いながら、命懸けで守ってくれた……)
リリアーヌの胸に、かつてないほどの温かな「信頼」の火が灯った。
しかし、その火を吹き消さんとする嵐――エリオット王子の本隊は、既に国境のすぐそばまで迫っていた。
「……セドリック様。……わたくし、明日はもっとたくさん食べますわ。……あんな王子に、わたくしが弱っているなんて思わせないために!」
「……ああ。お代わりの予算は、既に計上済みだ」
不器用な二人のやり取りが、迫り来る危機を前に、静かに響いた。




