第8話:女神の休息と領主の計算違い
翌朝、セドリック・フォン・アステリアは、かつてない不合理な目覚めを迎えていた。
本来であれば、深夜にあの「厚切りカツサンド」なる脂質の塊を摂取すれば、翌朝の消化器官は悲鳴を上げ、思考能力は数パーセント低下するのが理論上の帰結である。
しかし、どういうわけか、彼の身体は驚くほど軽かった。
「……不合理だ。炭水化物と脂質の過剰摂取が、睡眠の質を向上させたというのか? それとも、あの料理に含まれていた未知の成分が、脳内の報酬系を異常に刺激した結果か……」
セドリックは執務デスクに向かいながらも、昨夜の肉汁の味を脳の片隅で反芻している自分に気づき、眉を寄せた。
彼にとって、食事は「燃料」であり、それ以上でも以下でもない。味に気を取られるなど、計算式の途中に無意味なノイズが混じるようなものだ。
彼はその「ノイズ」を振り払うように、鋭い手つきで書類をめくり始めた。
一方、館の中庭では、心地よい春の風が吹き抜けていた。
メイドとしての午前中の「ふり」だけの業務を終えたリリアーヌは、大きな樫の木の木陰で、独り、至福の時間を過ごしていた。
「……ふん。メイド仕事も、慣れてみれば案外退屈なものですわね。わたくしの美貌が埃を被る前に、少しだけ休憩してあげなくてよ」
彼女の膝の上には、三人目の四天王・ルークから「試作品」として押し付けられた菓子パンがあった。
カスタードクリームが溢れんばかりに詰まったそのパンを半分ほど平らげたリリアーヌは、満腹感と暖かな日差しに抗えず、いつの間にか、木の根元に背を預けて微睡みに落ちていた。
そこへ通りかかったのが、気分転換(という名の、脳内のノイズ処理)のために庭を歩いていたセドリックだった。
「……リリー? そこで何をして――」
声をかけようとして、セドリックの足が止まった。
木漏れ日が、リリアーヌの燃えるような赤髪を透かし、柔らかな陰影を作っている。
いつもは険しく吊り上げられている眉は緩み、その表情には、毒気も、虚勢も、刺々しい言葉の鎧も、一切存在していなかった。
ただ、夢の中でさえ何か美味しいものを追いかけているのか、小さな口元が幸せそうに、僅かに動いている。
セドリックは、無意識に息を詰めた。
合理的ではない。
人間が眠っている姿など、単なる活動停止状態の観察に過ぎない。
だが、今、彼の目の前にあるのは、昨日までの「不合理な預かり物」という記号ではなかった。
一人の、あまりにも無防備で、そして「満たされている」少女の姿。
ドクン、と。
セドリックの左胸のあたりで、鋭い鼓動が鳴った。
彼は冷徹に自身の生体反応を分析しようとしたが、その思考は、中庭の入り口から響いた野太い声によって遮られた。
「よう! 女神様はいらっしゃるか!?」
現れたのは、定食屋のザックス、肉焼き屋のバネッサ、そしてパン屋のルーク――今や街で「四天王」と呼ばれる三人の男と女であった。
彼らは領主であるセドリックの姿を見ても、怯むどころか、獲物を狙う猟師のような目で詰め寄ってきた。
「閣下。……あんた、女神様に、この館の小鳥の餌みたいな飯だけを食わせてるんじゃないだろうな?」
「……ザックスと言ったか。彼女の食事管理は私の自由だ。それが何か?」
「大アリだ! 女神様が、あんたの不味い飯(※セドリックにとっては最高級の宮廷料理である)で元気をなくしちまったら、俺たちの新メニューは誰が評価するんだよ!」
「そうだ!」とバネッサが続く。
「あたしたちは、女神様のあのお代わりの勢いに魂を焼かれたんだ。閣下、あんたにその価値がわからねえなら、今すぐ女神様を俺たちの下町へ返してもらうぜ!」
セドリックは、眼鏡の奥の瞳に冷ややかな光を宿した。
本来なら、一介の料理人が領主に吐く言葉ではない。
だが、彼らの目にあるのは反乱の意志ではなく、リリアーヌという一点への、信仰に近い献身だった。
「……合理的ではないな。彼女はただ、食いしん坊なだけの令嬢だ。なぜそこまで……」
「わからねえのか? あの人はな、食うことで俺たちを救ってくれたんだよ! 安売りしてた俺たちの魂に、金貨を叩きつけてくれたんだ!」
セドリックは、沈黙した。
彼には理解できなかった。
ただ食べて、怒って、金貨を払う。その不合理な行動が、なぜこれほどまでに人を、街を、熱狂させるのか。
その時、リリアーヌが、うっすらと目を開けた。
「……ん、……あら? なにか、……騒がしいですわね……」
目を擦りながら立ち上がるリリアーヌ。彼女は、セドリックと四天王が対峙しているのを見て、一瞬で「ツン」の武装を装着した。
「な、ななな、何をジロジロ見てますのよ! わたくしの、天使のような寝顔に見惚れて言葉を失ったのかしら!? 失礼ですわよ!」
いつもの、傲慢な暴言。
セドリックはいつもなら「不合理だ」と切り捨て、書類に戻るはずだった。
だが、今の彼は、先ほどの鼓動の余韻の中にいた。
「……ああ、そうだ。言葉を失っていたよ。……君という存在の計算不能さにね」
「……はぁっ!?」
リリアーヌが顔を真っ赤にして絶句する。
セドリック自身も、今の自分の言葉に驚きを覚えていた。
肯定に近い返答。それは、彼の中の合理主義という名の城壁が、初めて微かに崩れた音だった。
「……セドリック、様? な、何、変なものを食べたのかしら。熱でもありますの?」
「いや、健康そのものだ。……ただ、少しだけ『疑念』が湧いただけだ。……私の構築した論理モデルでは、君の存在を完璧に説明できないという、重大な欠陥にな」
セドリックはそう言い残し、四天王を無視して執務室へと足早に戻っていった。
執務デスクに戻った彼は、激しく打つ鼓動を抑えながら、白紙の書類にペンを走らせた。
(……困惑、だな。これは。……彼女が何を食べようが、誰を弟子にしようが、私の知ったことではなかったはずだ。……だが、なぜ、私はあの寝顔を、一秒でも長く見ていたいと思ってしまったのだ?)
セドリック・フォン・アステリア、24歳。
人生で初めて、数式では解けない「ノイズ」が、彼の世界を支配し始めていた。




