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第7話:合理的な領主と不合理な心配

 領主館の応接室には、重苦しい空気が立ち込めていた。

 セドリックの向かい側に座っているのは、リリアーヌの母国から派遣された特使、ハンスという名の生真面目な文官である。彼はエリオット王子の側近の一人であり、その表情には隠しきれない緊張と、ある種の「正義感」が漲っていた。


「……セドリック閣下。単刀直入に申し上げます。リリアーヌ様を、直ちに我が国へお戻しいただきたい」


 セドリックは、運ばれてきた紅茶の湯気を眺めながら、淡々と応じた。


「お断りする。彼女は王家からの正式な依頼で、私が預かっている身だ。ほとぼりが冷めるまではこちらで静養させるという約束だったはずだが?」


「状況が変わったのです! 殿下のもとには不穏な報告が相次いでおります。リリアーヌ様が、この街で『四天王』なる不穏な武力組織を構築し、さらには『女神』として民衆を扇動していると。……彼女は復讐のために、軍備を整えているのではありませんか!?」


 ハンスは机を叩かんばかりの勢いで詰め寄った。

 セドリックは、眼鏡の位置を指先で微調整し、溜息を吐いた。


「四天王……。ああ、あの定食屋と肉屋とパン屋のことか。……ハンス殿、君の国では肉を焼く串やパンの麺棒が、王室を転覆させる武器になるとでも教育されているのかね? 合理的に考えて、彼女がやっているのはただの『食べ歩き』だ」


「殿下はそうは思っておられません! あのリリアーヌ様が、無意味な行動をなさるはずがないと仰っているのです! 彼女の『私、殿下の顔を見るだけで頭痛がしますわ』という言葉は、呪術的な攻撃を示唆していたのではないかと、今では深刻に検討されているのですから!」


 セドリックは、絶句した。

 王子の察しの悪さが、もはや天災の域に達していることを、彼は再確認した。


 その時。

 ドアが静かに開き、ワゴンを押したリリアーヌが入ってきた。

 彼女はメイドとしての制服を完璧に着こなしていたが、ハンスの顔を見た瞬間、その美しい眉が不快げに吊り上がった。


「あら。殿下の影に隠れてコソコソ動くのが得意な、ハンスさんじゃありませんこと。……こんな僻地まで、ゴミ拾いにでもいらしたのかしら?」


「リ、リリアーヌ様……! なんという恐ろしい目を……っ! やはり、怨恨の火は消えていなかったのか!」


 ハンスが椅子を引いて身構える。

 リリアーヌは「ふん」と鼻を鳴らし、ワゴンの上の茶器と、小皿に乗ったクッキーを並べ始めた。


「殿下に伝えなさいな。わたくし、今はこの街での生活が死ぬほど幸せですわ。あんなバカ王子の、おめでたい顔を見なくて済むと思うと、お腹の底から笑いが止まりませんことよ。……一生、あのお花畑のような聖女さんと仲良く暮らしていればいいんですわ!」


 激しい暴言。

 突き放すような冷酷な響き。

 ハンスは「やはり復讐の宣言だ!」と顔を青くしたが、その傍らで、セドリックの視線はリリアーヌの「指先」に注がれていた。


 ガタガタ、と。

 ソーサーにカップを置く音が、微かに鳴った。

 リリアーヌの指先は、まるで冬空の下に放り出された小鳥のように、小刻みに震えていた。

 彼女はそれを悟られまいと、強くカップの取っ手を握りしめ、殊更に高圧的な態度でハンスを睨みつけている。


「……さあ、用が済んだなら早くお帰りなさい。わたくし、この後は四天王の会合(という名の新メニュー試食会)がありますの。あなたの相手をしている時間は一秒もありませんわ!」


 リリアーヌは背筋をピンと伸ばし、足早に部屋を去った。

 静まり返る応接室。ハンスは震えながらセドリックを見た。


「閣下! 聞かれましたか、あの怨嗟の声を! 『死ぬほど幸せ』とは、すなわち、殿下の死を以て幸福を得るという暗喩に違いありません!」


「……ハンス殿。君は、今の彼女の心拍数や指先の震えを観察していたかね?」


「え……? いえ、あまりの恐怖にそこまでは……」


 セドリックは、リリアーヌが残していったクッキーを一つ、手に取った。

 

「彼女の言葉を、額面通りに受け取るのは非合理的だ。……『死ぬほど幸せだ』という絶叫は、私の分析によれば、実際は『寂しくて死にそうだが、それを認めるのはプライドが許さない』という、極めて不合理な自己防衛の裏返しだよ。……彼女の声が震えていたのは、怒りではなく、かつての馴染みの顔を見て、抑えていた郷愁が爆発しそうになったからだ」


「な、……そんな、まさか! あんなに恐ろしい暴言だったのに!?」


「彼女の『ツン』とした態度の裏には、常に正反対の『デレ』が存在している可能性がある。……もっとも、私には理解し難い不規則な言語体系だがね。……ハンス殿、彼女を今連れ戻せば、彼女の心は完全に壊れるか、あるいは君たちへの攻撃性をさらに強めるだろう。放置し、この街の『食』という燃料で精神の安定を図らせるのが、最も合理的な解決策だ」


 セドリックの冷徹かつ論理的な「ツンデレ解読」。

 それは感情による同情ではなく、徹底した観察に基づいた「翻訳」であった。

 ハンスは呆然としながらも、セドリックの圧倒的な説得力に押され、「報告書にはそのように……」と力なく頷くしかなかった。


 

 その日の夜。

 セドリックは執務室で、山積みの書類を片付けていた。

 深夜。本来であれば、メイドが働く時間ではない。

 だが、ドアが小さく開き、リリアーヌが顔を出した。


「……まだ起きていたのね、不規則な男ですこと。……これ、余ったから持ってきただけですわ。捨てるのはもったいないでしょう?」


 彼女が机に置いたのは、紙袋に包まれた、ずっしりと重い何かだった。

 香ばしいパンの匂いと、揚げたての肉の匂い。


「……なんだ、これは」


「四天王の、バネッサとルークが無理やり持たせたのですわ。『最強の厚切りカツサンド』ですって。……わたくしはもうお腹いっぱいですから、あなたが『燃料』として処理しなさいな。……勘違いしないで、本当に余り物なんですらね!」


 リリアーヌは顔を真っ赤にして、逃げるように去っていった。

 

 セドリックは紙袋を開けた。

 中には、ルークのあの厚切り食パンに、バネッサの肉厚なカツが豪快に挟まれた、美しさとは無縁の「塊」が入っていた。


「……余り物、か。具材の配置が完璧に計算されている。余り物で作れる代物ではないな。……不合理だ」


 セドリックは溜息を吐きながら、そのカツサンドを手に取った。

 本来、深夜にこれほどのカロリーを摂取するのは、健康管理上、不合理の極みである。

 だが、彼は一口、それを齧った。


「っ……」


 溢れ出す肉汁。パンの甘み。

 それは、彼の合理的で味気ない世界を、強引に塗り替えるような強烈な「熱」を持っていた。


……なぜこれを私に? 空腹なら自分で食べればいいものを。……やはり、理解不能だ。……だが、……悪くない


 セドリックは無意識に、二口目を運んだ。


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