第6話:小麦の賢者と禁断の厚切り
隣国の市場は、リリアーヌにとって既に「戦場」であり「聖地」でもあった。
メイド服の襟を正し、彼女は優雅な足取りで石畳を歩く。背後からは「女神様だ」「今日はどこへ降臨されるのか」という、下町住人たちの熱っぽい囁きが聞こえてくるが、彼女はそれを「当然の儀礼」として受け流していた。
だが、その歩みが、一人の青年によって遮られる。
白い粉で汚れたエプロンを纏い、若さに似合わぬ鋭い眼光を持った青年――パン屋のルークが、腕を組んで彼女の前に立ちはだかっていた。
「あんたが、ザックスやバネッサを骨抜きにしたっていう『女神様』かい」
「……ふん。骨抜きにした覚えはありませんわ。わたくしはただ、正当な評価を下しただけですことよ。……それで? あなたもわたくしに、何か毒見してほしいものでもあるのかしら」
リリアーヌは扇子(実は館から持ち出した高級品だ)で口元を隠し、挑発的に目を細めた。
ルークは鼻で笑い、自分の店――香ばしい匂いが立ち込める『ルークの麦穂亭』を指差した。
「あんたが『米派』だってのは聞いてる。だがな、米ばかりが女神の供物だと思うなよ。……うちの小麦が、あんたのその偏った舌を叩き直してやる」
「……いい度胸ですわね。わたくしにとって、パンとはお茶会の添え物。指先で千切って、紅茶の香りを邪魔しない程度に嗜む……そんな、おやつみたいなものに、わたくしが満足するとお思い?」
「へっ、お上品なこった。……まあ、座りな。度肝を抜いてやるからよ」
店内に案内されたリリアーヌの前に出されたのは、彼女の常識を根底から覆す「物体」だった。
「……な、……なによ、これ。何なのよ、この、枕のような塊は……っ!」
皿の上に鎮座していたのは、一切れ、などと呼べる代物ではなかった。
一辺が十センチはあろうかという、立方体に近い「厚切り」の角食パン。
表面は黄金色に焼き上げられ、その上には、もはや「塗る」という概念を超えた、分厚いバターの層が、熱によってとろりと溶け出している。
「食ってみな。うちの特製、五センチ厚切りバタートーストだ」
「……正気? これ、一口で食べるなんて物理的に不可能ですわよ」
「当たり前だ。齧り付くのさ。……ほら、女神様なんだろ?」
リリアーヌは、周囲の客(いつの間にか集まってきた、女神の追っかけたち)の視線を感じ、覚悟を決めた。
両手でその「熱い塊」を持ち上げる。ずっしりと重い。
そして、淑女としての最期の理性をゴミ箱に放り込み、大きく口を開けて齧り付いた。
――カリッ。
小気味よい音が、店内に響く。
表面の香ばしい皮を突き破った瞬間、中から溢れ出したのは、飲み物のように柔らかく、甘い、雪解けのような食感の生地だった。
そこへ、溶けたバターの暴力的な塩気とコクが雪崩れ込み、小麦の力強い香りと混ざり合う。
「っ……!!」
衝撃。
リリアーヌの脳裏に、かつて王宮で食べた「透けるほど薄いサンドイッチ」の記憶が蘇り、そして粉々に粉砕された。
あんなものは、パンではない。ただの乾燥した紙だ。
これが、これが「小麦の真実」なのだ。
「……な、なによこれ。……ふわふわだわ。中が、雲を食べているみたいに、ふわふわで……でも、耳のところは力強くて……。バターが、バターが止まりませんことよ……!」
「へへっ、そうだろ。発酵時間を通常の二倍取り、水分量を極限まで高めた。あんたが愛する『米』に負けないくらいの、粘りと甘みを持たせてあるのさ」
リリアーヌは、無我夢中で厚切りトーストに食らいついた。
口の周りがバターで光るのも構わず、もぐもぐと咀嚼し、幸福の海に溺れる。
「……悪くないわ。ええ、認めますわよ。これなら、お米がない寂しさを、一分間……いえ、三分間くらいは忘れさせてくれなくてよ!」
「ははっ、三分かよ! 厳しいねぇ!」
完食したリリアーヌは、満足げに溜息を吐くと、三度、あの黄金の輝きを机に叩きつけた。
「……金貨一枚。受け取りなさい。それと、ルーク。あなたを『城下町グルメ四天王』の三人目に認定してあげますわ。……ただし、宿題よ」
「……宿題?」
「この最高のパンに合う『最強の具材』を、ザックスとバネッサと協力して考えなさい。生姜焼きを挟むのか、串焼きを乗せるのか……わたくしを真に黙らせる『至高の一品』を完成させるのですわ。……いいかしら!」
「……四天王、ね。……面白い。女神様の直命だ、やってやろうじゃねえか!」
こうして、城下町の経済と食文化を揺るがす「四天王」のネットワークが、リリアーヌという一点を中心にして結ばれた。
街の人々は「パン屋も軍門に降った」「いよいよ女神様の親衛隊が完成間近だ」と、勘違いの熱狂をさらに加速させていく。
その日の夕刻。
リリアーヌが館に帰還すると、玄関には、まるで計ったようなタイミングでセドリックが立っていた。
彼はリリアーヌを一瞥し、ふと鼻先を動かした。
「……今日は、小麦と発酵バターの匂いか。君の『燃料』は、随分とバリエーションが豊富だな。……昨日の佃煮とは、ずいぶんと方向性が違うようだが」
セドリックの声は冷淡だが、その視線はリリアーヌの襟元に飛んだ「一粒のパン屑」に固定されていた。
合理的ではない。
外出するたびに、彼女の纏う匂いが変わり、そして彼女の「生命力」が増していく。その不合理な変化を、彼は無意識に「データ」として蓄積し始めていた。
「燃料じゃありませんわ! 芸術ですわよ、芸術! あなたも、一度くらいあの厚切りを体験すれば、その凝り固まった合理主義も少しは溶けて流れますわ!」
「不要だ。私は胃の中に何が入っているかよりも、その後にどれだけの仕事ができるかを重視するのでね。……それより、リリー」
セドリックの表情が、わずかに引き締まった。
「……君の母国から、使者が国境に近づいているという報告が入った。……君がこの街で『四天王』などという不穏な組織を作っているという噂が、あちらの王子に届いたらしい」
「……はぁっ!? 四天王のどこが不穏なんですの!? ただの、美味しいお店の括りですわよ!」
「私に言われても困る。……王子という男は、君の『言葉』を常に額面通りに受け取るのだろう? ……『四天王を従えた女神』。……あちらの解釈では、君は隣国の戦力を掌握し、復讐の軍備を整えていることになっているようだ」
セドリックは、呆れたように肩を竦めた。
「……全く。彼女が何を食べようが、誰を弟子にしようが構わないが。……あちらの勘違いのせいで私の事務仕事が増えるのは、非常に不愉快だ」
セドリックはそう切り捨てたが、その瞳の奥には、わずかな「好奇」の火が灯っていた。
(……これほどまでに人を、街を、そして国家を動かす『食欲』とは、一体何なのだ?)
彼はまだ気づいていない。
自分がリリアーヌを「観察」する頻度が、数日前の数倍に跳ね上がっていることに。




