第5話:領主の無関心と白米の誘惑
領主館の主執務室には、常に乾燥した紙とインクの匂いが満ちている。
セドリック・フォン・アステリアにとって、この部屋は世界の中心であり、同時に全ての事象を数字と合理性で捌き切るための戦場でもあった。
コンコン、と。
リズムの崩れた、どこか傲岸不遜なノックの音が響く。
「……失礼いたしますわ」
入ってきたのは、メイド服の裾を優雅に翻したリリアーヌだった。
彼女は銀のトレイを携え、セドリックの机の端、わずかに空いたスペースへ音もなく茶器を置く。その所作だけを見れば、母国の厳しい王妃教育が伊達ではなかったことが伺える。
「……淹れたての紅茶ですわ。冷めないうちに飲みなさいな。わたくしがわざわざ、茶葉の開き具合まで見極めて差し上げたのですから」
「ああ、そこに置いておいてくれ。……助かる」
セドリックは書類から目を離さず、片手でカップを引き寄せた。
そして、中身が何度であるかも、香りがどれほど高貴であるかも確認せず、ただ「水分を補給する」という目的のためだけに、機械的にその液体を喉へと流し込んだ。
その様子をじっと見ていたリリアーヌの眉間に、深い皺が寄る。
「……あなた、今、何を飲んだか分かっていますの?」
「紅茶だろう。適温だったよ」
「……それだけ!? わたくし、この領地の水質に合わせて、茶葉の蒸らし時間を秒単位で調整しましたのよ!? それを、まるで家畜が水を飲むような無作法で……!」
セドリックは、ようやくペンを止めて顔を上げた。
眼鏡の奥にある瞳は、驚くほど静かだ。
「リリー。私にとって食事や飲料というものは、身体機能を維持するための『燃料供給』に過ぎない。味が悪いよりは良い方が効率的だが、そこに情緒や感動を求めるのは非合理的だ。……違うかね?」
「不、……不合理!? まあ、まあ……! なんて可哀想な人なのかしら!!」
リリアーヌは、本気で同情するような目でセドリックを見つめた。
彼女にとって、美味しいものを食べて感動できない人間は、色彩のない世界に住んでいるのと同じだった。
「いいですか、セドリック様。美味しいものを食べるというのは、魂の洗濯なんですのよ! 明日への活力を、胃袋から心へと流し込む神聖な儀式なんですわ! それを燃料だなんて……あんなバカ王子でも、もう少し美味しそうにマカロンを食べていましたわよ!」
「……比較対象に王子を出すのはやめたまえ。不愉快だ」
セドリックは再び書類に視線を落とした。
彼にとって、リリアーヌの熱弁は「理解不能な言語」でしかなかった。
だが、その日の夕刻。
事態は思わぬ方向から動き出す。
リリアーヌは「市場調査(という名の買い出しパトロール)」から戻った際、一つの小瓶を大切そうに抱えていた。
それは、第一の四天王・ザックスが、リリアーヌの金貨への返礼として心血を注いで作り上げた『究極の飯の友』――小魚と実山椒を甘辛く煮詰め、秘伝の香辛料で仕上げた佃煮だった。
その日の館の夕食は、案の定、芸術的だが驚くほど薄い肉料理が一皿だけ。
リリアーヌは自室に戻るふりをして、こっそりと厨房の片隅を借り、自分で炊き上げた「山盛り白米」の前に座り込んだ。
「……ふふん。見てなさい、セドリック。わたくしは、あなたのような無味乾燥な人生は送りませんことよ」
リリアーヌは小瓶を開けた。
途端に、甘辛い醤油の香りと、山椒の爽やかな痺れるような香りが立ち上がる。
それを、炊きたてで真っ白に輝く米の上へと、贅沢に乗せる。
「……いただきますわっ!」
箸で米ごと佃煮を掬い取り、口の中へ。
濃縮された旨味が舌の上で爆発し、追いかけるように米の甘みが全てを包み込む。
「んんん……っ!! 美味しい……っ! 罪深いわ、ザックス……! お米が、お米が止まりませんことよ……!」
リリアーヌは、無我夢中で米をかき込んだ。
令嬢時代には考えられない、野性味溢れる食べっぷり。頬を膨らませ、幸せそうに目を細めるその姿は、確かに「女神」の輝きを放っていた。
――ガタッ。
背後で、小さな物音がした。
リリアーヌが驚いて振り返ると、そこには、いつの間にか厨房の入り口に立ち、無表情でこちらを見つめるセドリックの姿があった。
「……っ!? せ、セドリック様!? い、いつからそこに……!?」
「……今来たところだ。夜食に水を飲みに来ただけだが……。リリー、君はそこで何を『儀式』しているんだ?」
リリアーヌは、慌てて口元の米粒を拭い(拭いきれていなかったが)、茶碗を背中に隠した。
「べ、別に何もしてませんわ! ただの栄養補給ですわよ、栄養補給! あなたの仰る通りの、合理的な燃料摂取ですわ!」
「……ほう。燃料の割には、随分と恍惚とした表情をしていたようだが」
セドリックは一歩、リリアーヌに近づいた。
彼の視線が、彼女が隠し持っている小瓶へと注がれる。
「……その、茶褐色の物体は何だ。視覚的には、お世辞にも上品とは言えないようだが」
「なっ……! 上品じゃない!? 失礼ですわね! これは、この街の魂が凝縮された逸品なんですのよ! 山椒の刺激が、お米の甘みを最大限に引き出し、噛めば噛むほど海と山の恵みが……っ!」
熱く語り始めたリリアーヌを、セドリックは冷静に観察した。
「……塩分濃度が高そうだ。保存食としての合理性は認めるが、わざわざそれを摂取することに、どのような快楽があるというのだ。私には、単に血圧を上げるだけの行為に見える」
「快楽!? あなた、この『お米を無限に誘う背徳感』を快楽なんて安い言葉で片付けるつもり!? 人生損してますわよ! いいですか、この一口のために、わたくしは今日一日のメイド仕事を耐え抜いたのですわ!」
「……理解不能だ」
セドリックは溜息を吐き、水差しからコップに水を注いだ。
だが、彼は気づいていた。
リリアーヌがその『茶褐色の物体』を口にした瞬間、彼女の瞳に宿った輝き。それは、彼がどれほど高度な数式を解いても、どれほど完璧な統治計画を立てても得られない、純粋な「充足」の光だった。
「……リリー。君が何を食べようが、私の知ったことではない。……だが、それを食べている時の君は、普段の三倍は声が大きい。近所迷惑にならない程度に、その『背徳感』とやらを享受したまえ」
「言われなくてもそうしますわっ! ……ふん、一口分けてあげようかと思いましたけれど、絶対に上げませんからね!」
「ああ、不要だ。私は効率を重んじるのでね」
セドリックはそう言い残し、厨房を後にした。
執務室に戻ったセドリックは、再び書類に向き合った。
だが、ペンを持つ手が、わずかに止まる。
(……お米を無限に誘う、背徳感……か)
彼の脳裏に、頬を赤らめて幸せそうに米を頬張るリリアーヌの姿が、リフレインする。
合理的ではない。極めて不合理だ。
だが、あの茶褐色の物体は、一体どのような味がするのか。なぜ、あんなに誇り高いはずの令嬢を、あそこまで「無防備な笑顔」にさせるのか。
「……いや、考えるだけ時間の無駄だ。生活に支障がないなら、好きにさせればいい」
セドリックは自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし、彼の感情の時計の針が、ごく僅かに、本人も気づかないほど微かに、音を立てて動いた。
その翌日。
市場を歩くリリアーヌの前に、香ばしい小麦の匂いを漂わせた、一人の青年が立ちはだかる。
「……あんたが、噂の『女神様』かい?」
三人目の四天王候補、パン屋のルークとの出会い。
そして、その影で。
母国のエリオット王子の元には、不穏な書状が届いていた。
『元婚約者、リリアーヌ。隣国にて金貨をばら撒き、民衆を先導し、謎の組織『四天王』を構築中。反乱の兆しあり――』
平和な食卓の裏側で、物語は大きなうねりを見せ始めていた。




