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第4話:女神の巡回と謎の熱気

 領主館の重厚な門をくぐり抜けた瞬間、リリアーヌ・ド・グランヴェルは、淑女の仮面の下で小さくガッツポーズを作った。

 自由。なんと甘美な響きだろうか。

 あの合理的すぎて血の通っていないセドリックから、ついに「自由外出権」という名の通行証を勝ち取ったのだ。


「……ふん。あんな小鳥の餌みたいな朝食、二度と御免ですわ。わたくし、今日はあのお店の『しょうがやき』を十皿くらい平らげてあげなくてよ!」


 鼻息荒く城下町へと踏み出したリリアーヌだったが、すぐに異変に気づいた。

 昨日訪れた定食屋『ザックス』の周辺が、異様な熱気に包まれているのだ。

 昨日は煤けて静かだったはずの店先に、汗水垂らした労働者や、はては遠巻きに様子を伺う同業者らしき料理人たちで長蛇の列ができているではないか。


「……な、なによ。この人だかりは。もしかして、わたくしが金貨を置いたせいで、店主が逃げ出したのかしら!?」


 不安に駆られて列を掻き分け、店の中を覗き込む。

 そこには、逃げ出すどころか、昨日より三倍ほど巨大に見えるしゃもじを振り回し、狂ったように米を炊き上げている店主ザックスの姿があった。


「おう、女神様じゃねえか!!」


 リリアーヌの姿を見つけるなり、ザックスが大声で叫んだ。

 その瞬間、店内の全視線が彼女に突き刺さる。


「あ、あの方が……」「なんて神々しいドレス姿だ」「昨日、金貨一枚で定食を救済したという『黄金の女神様』か!」


「なっ……! だ、誰が女神ですって!? わたくしはただの通りすがりの、お腹が空いたメイドですわよ!」


 必死に否定するが、ザックスは聞く耳を持たない。彼はリリアーヌを昨日と同じ特等席へ半ば強引に案内すると、並んでいる客に「悪いな野郎ども、女神様がお見えだ! 順番を飛ばさせてもらうぜ!」と宣言した。

 驚くべきことに、不満を漏らす客は一人もいなかった。むしろ「女神様の食べっぷりを拝めるなら本望だ!」と、熱烈な視線がリリアーヌの背中を焼く。


 リリアーヌが、昨日の「救いの味」を再び享受しようとした、その時だった。


「――待ちちな。ザックス。あんたのところの飯だけが、女神様に相応しいと思ったら大間違いだよ」


 定食屋の入り口から、野太く、しかし筋の通った女性の声が響いた。

 現れたのは、腕まくりをした太い腕に、無数の焼き傷を刻んだ大女。腰には巨大な肉切り包丁を差し、背後には焼きたての「肉」の香りを引き連れている。


「おい、バネッサ! うちの女神様に何の用だ!」


「あんたの生姜焼きは確かに旨い。だがね、このお嬢さんの高潔な魂には、うちの『秘伝・串焼き肉』こそが相応しいのさ」


 バネッサと呼ばれた女は、リリアーヌの前にドサリと、これまでの人生で見たことがないほど巨大な串焼きを置いた。

 肉の一切れ一切れが、リリアーヌの握り拳ほどもある。滴り落ちる脂が炭火の香りを纏い、食欲の限界を軽々と突破してくる。


「……な、なによこれ。こんな野蛮な棒……わたくしが食べると思って?」


「ふん、食わねえなら置いていきな。だが、女神様。あんたの目は、この肉を食いたくてたまらねえって顔をしてるよ」


 挑発的なバネッサの言葉に、リリアーヌのプライドが火を噴いた。


「……言ってくれましたわね。わたくしを誰だと思っていまして? ……いいわ、毒見してあげますわよ。ついでに、お米も五杯持ってきなさい! お肉とお米の黄金比率は、わたくしが一番よく知っていますのよ!」


 リリアーヌは、お嬢様にあるまじき勢いで、巨大な串焼きに齧り付いた。

 噛み締めた瞬間、口腔内に爆発的な旨味の鉄砲水が溢れる。

 

「っ……!!」


 強い。あまりにも暴力的な肉の主張。

 だが、リリアーヌはそこで眉を寄せた。彼女の天性の舌は、ただ「美味しい」だけで終わることを許さなかった。


「……悪くないわ。肉の質も、焼き加減も完璧。……けれど、バネッサ! あなた、少し塩気が強すぎませんこと!?」


「なんだと……?」


「これでは、お米が四杯……いえ、五杯はいけてしまうではないの! まだ太陽が高い時間から、こんなにお米を消費させるなんて、罪深いですわよ! 付け合わせの野菜をもっと増やすか、あるいはソースに酸味を加えなさい。そうすれば、無限に食べられてしまいますわ!」


 リリアーヌは、むしゃむしゃと肉を咀嚼しながら、令嬢時代の厳しい食事会で培った「味覚の分析力」を全開にして怒鳴りつけた。

 店内は静まり返った。

 バネッサは、目を見開いて震えていた。


「……お米、五杯……。あたしの肉の欠点を、即座に見抜きやがった……」


 ドサリ、とバネッサがその場に膝をついた。


「あんたは本物だ。ただの食いしん坊じゃねえ……。食の真理を見通す、本当の『女神』だ。……師匠! 師匠と呼ばせてくれ!!」


「だ、誰が師匠ですって!? わたくし、ただの通りすがりの、お腹が空いたメイド……(以下略)! とにかく、お代は置いていくわ!」


 リリアーヌは再び、鞄から金貨一枚を引っ張り出すと、バネッサの目の前に叩きつけた。

 

「……受け取りなさい。この金貨で、もっとお米に合う最高の肉を追求するのよ! わたくしが次にくる時、妥協した味だったら承知しませんわよ!」


 そう言い残し、三杯のお代わりを済ませたリリアーヌは、疾風のように店を去った。

 後に残されたのは、金貨を拝みながら涙を流すバネッサと、それを羨ましそうに見るザックス。

 こうして、城下町のグルメ四天王、二人目が「女神」の手によって覚醒したのである。


 

 夕暮れ。

 領主館に帰還したリリアーヌの足取りは、極めて軽やかだった。

 顔色は薔薇色に輝き、瞳には力が溢れている。

 玄関ホールで彼女を待ち構えていたのは、冷徹な主、セドリックだった。


「……帰ったか。自由外出権を得て最初の日だが、満足のいく『市場調査』はできたのかね?」


 セドリックの声には、相変わらず一ミリの感情もこもっていない。

 だが、彼は気づいていた。朝、絶望の淵にいたはずの少女が、今は信じられないほど「満たされた」オーラを放っていることに。


「ふん! まぁまぁでしたわ。この街の食文化は、少し刺激が強すぎますけれど、わたくしが導いてあげなければなりませんもの。……さあ、夕食を持ってきてちょうだい。お腹が空きましたわ!」


「……ついさっきまで外出していたというのに、まだ食べるのか。君の胃袋は魔法の鞄か何かなのか?」


「失礼ですわね! 成長期なんですのよ!」


 プイと横を向いて去っていくリリアーヌ。

 セドリックは、その後姿をじっと見つめていた。

 そこへ、一人の側近が早足で近づき、耳打ちをする。


「旦那様……。本日、下町の串焼き屋バネッサが、リリアーヌ様に認められたと号泣し、店の屋号を『女神の直弟子』に変えたとの情報が……」


 セドリックの眉が、わずかに動いた。


「……直弟子? バネッサといえば、この街でも指折りの荒くれ料理人だったはずだが。……四天王だの、直弟子だの。彼女は一体、この街で何の軍隊を組織するつもりなんだ」


 セドリックは、溜息を一つ吐いた。

 合理的ではない。極めて不合理だ。

 だが、リリアーヌ・ド・グランヴェルという少女が館に入ってきてから、明らかにこの街の「熱」が上がり始めている。


「ああ、構わない。彼女が何を食べようが、誰を弟子にしようが、私の知ったことではない。生活に支障がないなら好きにさせなさい。……だが、館の厨房から『女神様への供物』として食材が消えていないかだけは、厳重に確認しておけ」


「はっ!」


 セドリックは、手元の書類に視線を戻した。

 しかし、その頭の片隅には、先ほど見たリリアーヌの「満足げな横顔」が、ほんの少しだけ、解けない数式のように残り続けていた。


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