第3話:領主館の優雅なる飢餓
領主館の朝は、静謐と共にある。
高い天井、磨き抜かれた廊下、そして主の性格を反映したかのような、無駄のない調度品。
リリアーヌ・ド・グランヴェルは、メイド服という「偽りの衣」を纏い、鏡の前で自身の姿を眺めていた。
「……ふん。この格好も、案外悪くないわね。わたくしの美貌は、布切れ一枚で隠せるような安っぽいものではありませんことよ」
昨日の定食屋での一件は、彼女の中で「あれは夢だったのではないか」という疑念すら生んでいた。
だが、胃袋は覚えている。あの暴力的なまでの満足感を。
リリアーヌは、今日から始まる館での生活に、密かな期待を寄せていた。
(……領主館の食事ですもの。公爵家の食事に匹敵する、いえ、商業が盛んなこの国なら、それ以上の美食が待っているはずだわ!)
期待に胸を膨らませて、彼女は「仕事」として命じられた、主との朝食兼顔合わせの席へと向かった。
ダイニングルームに座っていたのは、若き領主セドリック・フォン・アステリアである。
彼は眼鏡の奥の瞳を書類に向けたまま、リリアーヌが部屋に入ってきても、視線を上げることはなかった。
「座りたまえ、リリアーヌ嬢。……いや、今はメイドのリリーだったか。堅苦しい挨拶は不要だ。私は多忙なのでね」
「……随分と、歓迎されていないようですわね。わたくし、これでも客分として伺ったつもりなんですけれど?」
リリアーヌは、いつものように「ツン」と鼻を鳴らし、向かいの席に座った。
セドリックは、そこでようやく視線を上げ、リリアーヌを一度だけ一瞥した。
「ああ、構わない。君に何をさせるかは決めている。君は私の話し相手を務め、たまに茶を淹れればいい。……あとは、目障りにならない程度に、その辺を掃除しているふりでもしていてくれ。君に『労働』を期待するほど、私は楽観主義者ではない」
「な、……なんですって!? わたくしを役立たずだと言いたいの!? 掃除くらい、完璧にこなしてみせますわよ!」
「そうか。期待せずに待っておこう」
セドリックの声は、どこまでも平坦だった。
リリアーヌがどれほど言葉の棘を向けても、彼はそれを避けることさえせず、ただ受け流す。その無関心さに、リリアーヌは苛立ちを覚えたが、それ以上の感情が彼女を襲った。
食事が、運ばれてきたのだ。
「さあ、食事にしよう。……君の国の礼儀に合わせたつもりだ。満足できるといいが」
セドリックの言葉に、リリアーヌは「ふふん」と得意げな笑みを浮かべた。
だが、給仕が銀の蓋を開けた瞬間、その笑みは凍りついた。
皿の上に鎮座していたのは、透き通るような白身魚のソテーが、親指の先ほどのサイズで一切れ。
そして、色とりどりの野菜が、宝石のように美しく、しかし残酷なほどに少量ずつ配置されていた。
(……な、……なによ、これ)
リリアーヌは目を疑った。
確かに美しい。香草の香りも素晴らしい。
だが、あまりにも――少ない。
「……あ、あの、セドリック様? これ、前菜の盛り合わせかしら? 本皿は別にあるのよね?」
「何を言っている。それがメインだ。朝から脂っこいものを食べるのは、合理的ではないからね」
「……はぁっ!?」
リリアーヌは絶句した。
淑女の作法に従い、一切れの魚を口に運ぶ。……美味しい。確かに、素晴らしい味だ。
だが、飲み込んだ瞬間に消えてしまう。お腹の虫が「おい、今のは前座か?」と抗議の声を上げる。
パンも、指先で摘めるほど小さなクロワッサンが一つきり。
「……君は、あまり食べないのだな。顔色が悪いぞ。やはり、婚約破棄のショックというものは、それほどまでに女性の胃を閉ざすものか」
セドリックが、淡々と分析を口にする。
彼には、リリアーヌが「少なすぎてショックを受けている」とは一ミリも思っていないようだった。むしろ、彼女がこの食事を「食べきれないほど気落ちしている」と解釈したらしい。
「ち、……違いますわ! わたくし、これでは足りな……っ!」
言いかけて、リリアーヌは口を噤んだ。
ここで「もっと米を寄越せ」などと言うのは、淑女としての最期の矜持が許さない。
しかし、このままでは餓死する。昨日のあの「生姜焼き定食」を知ってしまった胃袋が、この「芸術作品」では満足できないと叫んでいる。
「……セドリック様。わたくし、メイドとして、この街の風土をもっと知るべきだと思うのですわ。ええ、そうですわ」
「風土?」
「メイドたるもの、市場の価格推移や、庶民の生活を把握していなければ、適切な管理はできませんことよ。ですから……わたくしに、毎日の『自由外出権』をいただきとうございますの!」
リリアーヌは、必死の思いで訴えた。
要は「館の食事が足りないから外に食いに行かせてくれ」ということなのだが、彼女の口を通ると、それは「メイドとしての崇高な義務感」へと変換される。
セドリックは、ようやく書類から完全に目を離し、リリアーヌの顔を真正面から見た。
「自由外出……。ふむ。君をここに閉じ込めて発狂されても困るしな。構わない、好きにしたまえ。……ただし、一つ条件がある」
「……条件?」
「街の経済を混乱させるな。昨日、君が定食屋で金貨をばら撒いたせいで、その店の主が『女神の加護を得た』と叫びながら、一晩で店を改装し始めたらしい。……君が何を食べていようが、金貨をどう使おうが、私の知ったことではない。だが、領主としての私の仕事が増えるような事態だけは避けろ」
「……うっ。……わ、わかってますわよ! そんなことっ!」
リリアーヌは顔を赤くして言い返した。
昨日の「金貨事件」が、既に彼の耳に届いていたことへの恥ずかしさと、それを「瑣末なこと」として切り捨てられたことへの屈辱。
だが、これで「自由」は手に入った。
「ああ、それと……」
セドリックが、去り際のリリアーヌに声をかける。
「君が昨日の店で、お代わりを三回したという報告も受けている。……公爵令嬢というものは、意外と燃費が悪いのだな」
「っ……!! 聞いてらっしゃったのね! 嫌味な男ですこと!!」
リリアーヌは捨て台詞を残し、ダイニングルームを飛び出した。
廊下を走りながら、彼女は心の中で誓う。
(……見てなさい、セドリック! わたくし、この街の全ての美味しいものを制覇して、あなたの館の食事なんて見向きもしなくなってあげますわ!)
一方、ダイニングルームに残されたセドリックは、リリアーヌが飲み残した紅茶のカップを、冷めた目で見つめていた。
「……あんなに怒る体力があるなら、心配は無用そうだな。……それにしても、なぜ彼女は『足りない』とはっきり言わないのか? 」
セドリックにとって、リリアーヌの「ツンデレ」という不合理な言語形態は、未だ未知の領域であった。
だが、彼の予想に反して、この「お代わり自由の女神」がもたらす変革は、既に館の外で、爆発的な勢いで広まり始めていた。
下町の定食屋の主、ザックス。
彼はリリアーヌに貰った金貨を握りしめ、近所の料理人たちを集めて熱弁を振るっていた。
「いいか野郎ども! あの女神様が、またいつ来てもいいように……世界一の飯を炊き上げるぞ!!」
リリアーヌが「美味しいものを食べる」という生存本能に従って行動するたび、この街の歴史が、そしてセドリックの平穏な日常が、少しずつ、しかし確実に書き換えられていく。




