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第2話:お代わり自由という名の救済

 石畳の道はどこまでも続き、慣れない旅の疲れがリリアーヌの脚を重くさせていた。

 隣国の国境を越え、馬車を乗り継いでようやく辿り着いたこの領地は、リリアーヌの母国よりも活気に満ち、空気にはどことなく香ばしい匂いが混じっている。

 だが、今の彼女にとってその活気は、ただ自分を惨めにする騒音に過ぎなかった。


(……わたくしが、メイド? あんなバカ王子のせいで、泥にまみれて働けというの?)


 リリアーヌは、豪華な刺繍が施された絹のハンカチを握りしめた。

 淑女の誇り、王妃になるための教育、エリオット王子への秘めた想い。それら全てが、一週間前のあの夜会で粉々に砕け散った。

 今の彼女にあるのは、最低限の着替えが入った鞄と、ドレスの裏地に隠し持っていた一袋の金貨だけだ。


 ぐう、と。

 情けない音が、彼女の贅肉の欠片もない腹部から鳴り響いた。


「……な、なによ。こんな時にまで、空気の読めないお腹ですこと」


 頬を赤らめ、周囲を見回す。

 迎えの馬車が来るまで、まだ時間はあった。

 リリアーヌは、ふらふらとした足取りで、街道沿いにある一軒の店へと吸い寄せられていった。


 そこは、お世辞にも清潔とは言えない、煤けた壁の定食屋だった。

 入り口には『お代わり自由』と荒っぽく書かれた木札が下がっている。

 淑女であれば、決して足を踏み入れてはならない場所。だが、今の彼女は空腹という名の暴力に屈していた。

 彼女が暖簾をくぐると、店内にいた荒くれ者たちの視線が一斉に突き刺さる。


「……な、なによ! あ、歩き疲れたから、少し休ませていただくだけよ! べ、別に、お腹が空いているわけじゃないんだからね!」


 誰も何も言っていないのに、リリアーヌは精一杯の「ツン」を振りまいた。

 カウンターの奥で包丁を握っていた髭面の親父が、リリアーヌのドレス姿を上から下まで眺め、鼻で笑った。


「おう、お嬢ちゃん。うちはお上品なティーセットなんて置いてねえぞ。食うか? 今日の日替わりは生姜焼きだ」


「し、しょ……しょうがやき? 何かしら、その野蛮な響きの料理は。……まぁいいわ、毒見してあげてもよろしくてよ。持ってきなさい!」


 リリアーヌは、空いている丸椅子に腰を下ろした。座面が硬く、お尻が痛い。

 だが、数分後。

 目の前に置かれた「それ」を見た瞬間、彼女の思考は停止した。


 大きな平皿に、これでもかと盛られた茶褐色の肉。立ち昇る湯気には、食欲を直接殴りつけるような、強烈な醤油と生姜の香りが宿っている。

 そして何より――。


「な、……なによ、これ。何なのよ、この、白い山の群れは……!」


 茶碗に、文字通り山のように盛られた白米。

 王宮での食事であれば、米やパンは銀の皿に薄く、宝石のように配置されるものだった。

 それが、ここでは「これでもか」と、重力に抗うように積み上げられている。


「おいおい、そんなにビビんな。うちは飯のお代わりはタダだ。好きなだけ食いな」


「た、タダ……? 自由……? そんな、恐ろしいことがあるはずありませんわ。わたくし、騙されませんことよ!」


 疑いながらも、リリアーヌは箸を手に取った。淑女としての持ち方ではない。握るように、必死に。

 肉を一枚、口に運ぶ。


「っ……!!」


 衝撃が走った。

 濃いめの味付けが、空っぽの胃袋に染み渡る。

 肉の脂が舌の上で溶け、生姜の刺激が鼻を抜ける。

 反射的に、白い米を口に放り込んだ。

 甘い。米が、こんなに甘いなんて知らなかった。

 肉、米、肉、米――。


(……美味しい。何これ、美味しい。美味しい、美味しい美味しい美味しい!!)


 王宮の食事は、確かに芸術だった。だが、それは常に「空腹を少しだけ宥めるための儀式」でしかなかった。

 今、リリアーヌは人生で初めて、「胃袋が満たされていく喜び」を知った。

 淑女のプライドが、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。


「お、親父さん! これ、もう一杯……いえ、あと二杯持ってきなさい! べ、別に美味しいわけじゃないわよ! ただ、残すのは農家の方に失礼だと思っただけなんだから!」


「ははっ、いい食いっぷりだ!」


 気づけば、リリアーヌは三杯の山盛りご飯を完食していた。

 苦しいほどに満たされた胃袋。それが、こんなにも幸福なことだなんて。

 エリオット王子に捨てられた絶望さえ、今は少しだけ遠くに感じられた。

 彼女は、お会計のために立ち上がった。


「親父さん。……お代は?」


「おう。銅貨一枚だ」


 その言葉に、リリアーヌは今日一番の衝撃を受けた。

 銅貨一枚。

 王宮であれば、馬の餌代にもならないような金額だ。

 これほどの幸福を、これほどの救済を与えてくれた食事が、そんな安値で売られている。

 リリアーヌの中で、何かが爆発した。


「……ふざけないでっ!」


「あ、あん?」


「こんなに、こんなに素晴らしいものを食べさせておいて、銅貨一枚ですって!? わたくしを、わたくしを馬鹿にしているの!? この料理に対する冒涜よ!」


 リリアーヌは、鞄から黄金に輝く金貨を一枚取り出し、カウンターに叩きつけた。

 店内が静まり返る。


「お、おい、お嬢ちゃん、これは……!」


「受け取りなさい! お釣りなんていらないわ! 受け取らないなら、わたくし、明日も明後日もここに来て、あなたが困るまでお代わりし続けてあげるんだからねっ!!」


 それは、彼女なりの、精一杯の感謝だった。

 涙を浮かべながら、リリアーヌは店を飛び出した。

 残された店主と労働者たちは、呆然と金貨を見つめていた。


「……な、……なんて義理堅い。まるで女神様のようだ……」


 一人の労働者が呟いたその言葉が、後の伝説の始まりだった。


 

 その数時間後。

 リリアーヌは、迎えの馬車に揺られて領主セドリックの館へと到着した。

 

 館の主、セドリック・フォン・アステリアは、執務室の机で書類にペンを走らせていた。

 そこへ、リリアーヌを迎えに行った執事が、困惑した表情で現れる。


「旦那様。……お預かりするリリアーヌ嬢が到着されました。ですが……」


「……何か問題でもあったか?」


 セドリックは顔も上げずに問いかけた。

 彼の声は、凪いだ海のように平坦で、冷ややかだった。


「はい。彼女、領地に入るなり下町の定食屋へ押し入り、金貨を一枚叩きつけて、号泣しながら飯を食っていたとの報告が……。町中がその話題で持ちきりです。あのような素行の知れない娘を、本当にメイドとして受け入れてよろしいのですか?」


 執事の懸念は、もっともだった。

 公爵令嬢が下町で騒ぎを起こすなど、前代未聞だ。

 だが、セドリックはペンを止めることさえしなかった。

 彼は書類の端をめくりながら、淡々と、事務的な口調で告げた。


「ああ、構わない。彼女が何を食べていようが、金貨をどう使おうが、私の知ったことではない。生活に支障がないなら好きにさせなさい」


「……しかし、旦那様」


「彼女はただの『預かり物』だ。王家からの依頼で、ほとぼりが冷めるまでこの館に置いておくだけに過ぎない。……私の時間を、そのような瑣末な報告で奪わないでくれ」


 セドリックにとって、リリアーヌという人間はまだ、名前のついた書類の一部でしかなかった。

 彼女がどれほどの絶望を抱え、どれほどの幸福を米粒と共に噛み締めたのか。

 そんなことに興味を持つほど、彼は暇ではなかった。


 執務室の窓からは、館の門をくぐる馬車が見える。

 セドリックは一度も外を見ることはなく、次の書類へと手を伸ばした。


 リリアーヌ・ド・グランヴェル。

 彼女がこの館で、どのように「食」を追求し、どのようにこの冷徹な男の翻訳機を起動させていくのか。

 それはまだ、誰にもわからない物語であった。


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