第1話:完璧な淑女(のつもり)と、優しすぎる王子の決断
「――リリアーヌ。君との婚約を、本日限りで解消したいと思う」
その言葉が放たれた瞬間、王宮の夜会会場は静まりかえった。
豪奢なシャンデリアが照らし出すのは、磨き上げられた床に落ちる影。そして、呆然と立ち尽くす一人の公爵令嬢の姿だった。
リリアーヌ・ド・グランヴェル。
燃えるような赤髪を完璧な縦ロールに巻き、一点の隙もないドレスを纏った彼女は、この国の誰もが認める「完璧な悪役令嬢」――もとい、完璧な淑女を目指していたはずの少女である。
(……え?)
頭の中が真っ白になった。
扇子を握る指先が、わずかに震える。しかし、彼女の「鉄の仮面」とも言うべき淑女のプライドが、反射的に別の言葉を吐き出させた。
「……あら。聞き間違いかしら? エリオット殿下。その、冗談にしては少しばかり趣味が悪いんじゃありませんこと?」
精一杯の虚勢だった。心臓は早鐘を打ち、喉の奥は焼けるように熱い。
だが、彼女の前に立つ婚約者、エリオット王子は、どこまでも慈愛に満ちた、悲しげな瞳で彼女を見つめていた。その瞳には、怒りも憎しみも一切ない。あるのは、救いがたいほどの「善意」だけだった。
「冗談なものか。僕は本気だよ。……リリアーヌ、君は今まで本当によく頑張ってくれた。僕の隣に立つために、厳しい教育に耐え、僕を叱咤し、僕を律してくれたね」
「そ、そうですわ。それは当然のことでしょう? 王妃になる者として、殿下を支えるのは私の務め……」
「そうだね。でも、もういいんだ。もう、自分を偽らなくていいんだよ」
エリオットがリリアーヌに一歩近づく。彼は、彼女の震える手を包み込もうとして、彼女が拒絶するように扇子を握りしめたのを見て、悲しそうに微笑んだ。
「君は僕に会うたび、厳しい言葉を投げかけていた。『殿下のそのネクタイの色、反吐が出ますわ』『その歩き方、まるでアヒルですわね。もっとマシな動きはできませんの?』『お顔を見るだけで頭痛がしますわ、早くあっちへ行ってちょうだい』……。君が僕をどれほど嫌っているか、僕は痛いほど理解していたつもりだ」
「ちっ、違……! それは、そのっ……!」
違う。違うの!
ネクタイの色が似合っていなかったのではない。あまりに似合いすぎていて、直視すると心臓が止まりそうだったから、つい逆の言葉が出てしまっただけだ。
アヒルのくだりだって、あまりに殿下が楽しげに歩いてくるから、その愛らしさに動揺しただけ。
顔を見るだけで頭痛がするというのは、殿下が眩しすぎて、自分の脳が処理しきれなくなったから。
あっちへ行ってというのは、「これ以上近くに来られたら好きすぎて爆発してしまう」という、彼女なりの防衛本能だった。
リリアーヌは、重度の「ツンデレ」だったのである。
それも、教育が厳しすぎたせいで、「愛を伝える言葉」の出力機能が完全に故障してしまった、悲しきハイスペック令嬢だった。
しかし、そんな高度な心理構造を、この「正義感溢れる真っ直ぐな王子」が理解できるはずもなかった。
「リリアーヌ、僕は君を愛していた。だからこそ、君を縛りたくないんだ。君は僕と一緒にいるだけで、あんなに顔を真っ赤にして怒り、言葉を荒らげていた。僕が君の視界に入るだけで、君は苦しんでいたんだろう?」
「そ、れは……そのっ、顔が赤かったのは怒っていたからじゃなくて……!」
「いいんだ。恥じなくていい。僕に対する拒絶を、君は精一杯の『淑女の義務感』で隠そうとしていた。でも、もう限界だ。……君を、この地獄のような婚約から解放してあげることが、僕ができる最後の『愛』だという結論に達したんだ」
エリオット王子の声は、確信に満ちていた。
彼は本気で、リリアーヌのために良かれと思って、この婚約破棄を計画したのだ。
リリアーヌがどれほど努力して王妃教育をこなしてきたか。どれほど必死に、彼の好みに合わせたドレスを選んできたか。そのすべてを「嫌いな男のための、嫌々な義務」と変換して受け取ってしまったのである。
「殿下、待って……待ってくださいませ! 私は、私はそんなこと望んで……!」
「……最後まで僕を気遣って、義務を果たそうとするんだね。君は本当に高潔な女性だ。でも、君の背負っている荷物を下ろしてあげたい。……父上にも話は通してある。グランヴェル公爵家との婚約は、白紙に戻す。君は自由だ、リリアーヌ。さあ、もう僕のために無理をして微笑む(※実際は引き攣った顔をしていた)必要はないんだよ」
王子の周囲にいた側近たちも、感動したように頷いている。
「殿下、なんと慈悲深い」「リリアーヌ様を想っての、涙の決断ですな」と口々に囁いている。
リリアーヌの味方は、ここには一人もいなかった。彼女が必死に築き上げた「完璧な婚約者」という城壁は、王子の「究極の善意」というハンマーによって、音を立てて崩れ去った。
絶望が、リリアーヌの胸を支配した。
(そんな……嘘よ。私は、ただ殿下と一緒にいたかっただけなのに。殿下の隣で、美味しいお菓子を食べたり、お喋りしたりする将来を、誰よりも楽しみにしていたのに……!)
だが、一度決まった王子の決断は覆らない。
さらに、追い打ちをかけるようにエリオットは続けた。
「君には、隣国のセドリック領主のもとへ行ってもらうことになっている。彼は僕の知人だ。あちらの領地は空気が良く、美味しいものも多い。そこでゆっくりと、僕によって傷ついた心を癒やしてほしいんだ。……身分を隠して、メイドとして働くという形なら、誰にも邪魔されずに平穏に暮らせるだろう?」
「め、メイド……!? 私が、メイドですって!?」
「ああ。君なら完璧にこなせるだろう。……本当は、君をこの国で守りたかったけれど、婚約破棄という不名誉を背負わせてしまった僕が君の側にいるのは、君をさらに苦しめることになるからね」
どこまでも。
どこまでも、彼は「自分が悪者になってでも彼女を救う」という、間違った方向に全力投球していた。
リリアーヌの脳裏に、これまでの日々が走馬灯のように流れる。
お腹が空いても「淑女は一口しか食べてはいけません」という家庭教師の言葉を守り、大好きな肉料理を我慢して、小指の先ほどの小さなマカロンだけで耐えてきた夜会。
殿下に褒めてほしくて、寝る間を惜しんで覚えた外交の知識。
すべてが、無駄になった。
「……っ、……ふんっ! そう。そうですわね! 殿下の仰る通りですわ!」
リリアーヌの中で、何かがぷつりと切れた。
彼女は溢れそうになる涙を、怒りの炎で強引に蒸発させた。
「そこまで私を追い出したいのでしたら、喜んで出て行って差し上げますわ! 私も、殿下のその、救いようのない鈍感……いえ、おめでたいお顔を見なくて済むと思うと、清々しますわ! ええ、本当に清々しますこと!」
「……ああ、リリアーヌ。最後の最後まで、僕を突き放して、僕が罪悪感を抱かないようにしてくれているんだね。君のその『強がり』は、本当に美しいよ」
「話を聞きなさいよ、このバカ王子ーーーーっ!!」
叫び声は、夜会の音楽にかき消された。
◇◇ ◇◇
一週間後。
リリアーヌは公爵家から勘当されるような形で(これも王子の「彼女が家族から責められないように、あえて縁を切らせる」という善意の裏工作によるものだった)、最低限の荷物と、隠し持っていた「おやつ代」の金貨袋だけを手に、国境を越えた。
彼女の心は、ボロボロだった。
何もかもを失った。愛していた男には言葉が通じず、家族とは離れ、誇り高き公爵令嬢から、隣国の名もなきメイドへ。
「……お腹、空いたわ」
隣国の国境近くの街道。
迎えの馬車を待つ間、リリアーヌは独りごちた。
思えば、この数日間、絶望のあまり喉を何も通らなかった。
いや、それ以前に、彼女の人生は常に「空腹」との戦いだった。淑女であるために、常に食事を制限し、胃袋を虐めてきた。
その時、ふわりと。
風に乗って、これまでの人生で嗅いだことのない、暴力的とも言える芳醇な香りが漂ってきた。
醤油の焼けるような香ばしさ。
脂の乗った肉が爆ぜる音。
そして、炊き立ての穀物の、甘く柔らかな匂い。
「な、……なによ、この、品のないけれど暴力的に食欲をそそる香りは……」
リリアーヌの足は、無意識にその香りの源へと向かっていた。
そこは、街道沿いにある古びた定食屋だった。
看板には、掠れた文字でこう書かれている。
『お代わり自由。腹が減ったら、食ってけ』
リリアーヌ・ド・グランヴェル。
後に隣国で「グルメの女神」と称えられることになる彼女の、新しい人生の幕が、今、空腹の音と共に上がろうとしていた。




