第28話:国境のグルメ市と、女神の審判
領地を分かつ国境線。そこは本来、冷たい石の杭と、鋭い槍を構えた兵士たちが睨み合う、殺伐とした拒絶の場所であるはずだった。
北側に陣を張るのは、母国の白百合の旗を掲げるエリオット王子の本隊。連日の遠征と、何より腕利きの料理人を失ったことによる「粗末な配給」に耐えかね、兵士たちの顔は土色に沈み、その士気は風前の灯火となっていた。
だが、その日の昼下がり。
南側の風に乗って、彼らの鼻腔を、いや、その魂を直接揺さぶるような「暴力的なまでの芳香」が漂ってきたのである。
「――皆様、お待たせいたしましたわ! お腹が空いている方に、国境も敵味方もありませんことよ!」
リリアーヌ・ド・グランヴェルの凛とした声が、魔導具による拡声で戦場に響き渡った。
国境線ギリギリの平地に、突如として出現したのは、巨大な白い天幕の群れ。そこからは、何十もの大釜から立ち昇る白米の湯気と、炭火で焼かれる肉の脂が弾ける音、そして数えきれないほどのスパイスが混じり合った、まさに「満足の奔流」が溢れ出していた。
「な、……なんだ、あの煙は……。まさか、隣国の新型兵器か!?」
「馬鹿を言え、この匂い……肉だ! 焼きたての、とろけるような肉の匂いだぞ!」
母国の兵士たちが、槍を投げ出して国境線へと詰め寄る。
そこには、四天王たちを従え、輝くような笑顔で巨大なレードルを振るうリリアーヌの姿があった。
「さあ、並びなさいな! 今日はザックスが炊き上げた最高級の白米に、バネッサが三日三晩焼き上げた牛塊、トトが今朝揚げたばかりの魚のフライ、そしてルークの厚切りパンがすべてお代わり自由ですわよ! ……武器を持っている方の席はありませんわ。お腹を空かせた一人の人間として、わたくしの前に来なさいな!」
その宣言は、どんな軍事的な降伏勧告よりも強力だった。
一人の若い兵士が、堪えきれずに境界線を越えた。彼はリリアーヌから手渡された、これでもかと肉が乗せられ、黄金色のソースが滴る「特製・国境丼」を一口頬張った瞬間、その場に膝をついて慟哭した。
「……旨い、……旨すぎる! 俺たちは、……俺たちは、あんな乾燥したパン一切れのために、この女神様を攻撃しようとしていたのか!?」
「……ふん。食べながら泣くなんて、行儀が悪いですわよ。……でも、よろしい。今日は心ゆくまで食べなさいな。美味しいものを食べた後に、まだ戦いたいなんて思う方は、わたくしがこのレードルで叩き出して差し上げますわ!」
リリアーヌの「満足の洗礼」は、瞬く間に母国の軍勢を瓦解させていった。
騎士たちは剣を捨てておにぎりを頬張り、弓兵たちは弦を緩めてカツサンドに齧り付く。
そこにはもはや、侵略者も防衛者もいなかった。ただ、女神がもたらす「満腹」という名の救済に酔いしれる、腹を空かせた隣人たちがいるだけだった。
そんな喧騒の渦中。
ボロボロの外套を羽織り、正体を隠して列に並んでいた一人の男が、リリアーヌの前に辿り着いた。
エリオット王子である。
彼は、やつれ果てた顔で、リリアーヌが差し出した一皿の「特製ビーフシチュー」を見つめていた。
「……リリアーヌ。……君は、……君はこんなにも、……」
「……殿下。……お並びなら、無言で受け取りなさいな。後ろがつかえておりますわよ」
リリアーヌは、彼が王子であることを承知の上で、一人の「飢えた客」として扱った。
エリオットは、震える手でスプーンを取り、シチューを一口運んだ。
宮廷の技術と下町の情熱が融合した、その深く、温かく、力強い味わい。
彼がこれまで「高貴さ」の名の下に強いてきた、あの淡白で孤独な食事とは、あまりにも対極にある「生の喜び」。
「……ああ、……あああ……っ!」
王子は、皿を抱えたまま、子供のように泣きじゃくった。
リリアーヌに与えていたマカロン。自分が信じていた「愛」。
それがいかに空虚で、いかに彼女を飢えさせていたか。
目の前で、数千の兵士たちを笑顔に変えているこの一皿の重みが、彼の独りよがりな幻想を完膚なきまでに粉砕したのだ。
「……理解できたかね。王子」
リリアーヌの隣に、いつの間にかセドリックが立っていた。
彼は腕を組み、満足そうに(しかし無表情に)刺身を「毒見」しながら、王子を見下ろした。
「……君が愛と呼んでいたものは、栄養学的には欠乏であり、統計学的には不合理の極みだ。……彼女が求めていたのは、君が用意した鏡のような静寂ではなく、この騒がしくて温かな『満足』だった。……君の負けだよ。胃袋の差でね」
「……分かった。……もう、僕には、彼女を……この女神を連れ戻す資格などない。……リリアーヌ。……美味しかった。……こんなに美味しいものは、……人生で、初めてだ……」
エリオット王子は、最後の一口を大切そうに飲み干すと、ふらふらとした足取りで、自らの陣へと戻っていった。
数時間後。
母国の軍勢は、戦うためではなく、食糧の支援を求める嘆願書をリリアーヌに託し、平和的に撤退を開始した。
武力による激突は回避され、残されたのは、山のような空き皿と、国境を越えて結ばれた民衆の絆だけだった。
「……ふん。ようやく、あのおめでたい頭も少しは冷えたようですわね」
リリアーヌは、夕日に染まる国境を眺めながら、心地よい疲労感に包まれていた。
隣に立つセドリックが、そっと彼女の肩に自分の上着をかけた。
「……合理的判断だ、リリー。……君の食欲が、一国の軍勢を無効化し、領地の平和を確定させた。……これほどの経済的・軍事的成果を出したメイドは、歴史上君だけだろう」
「……あら。わたくし、ただお腹いっぱい食べさせてあげただけですわよ。……あ、セドリック様。……まだ、これ、余っていますわ」
リリアーヌは、大切に隠しておいた最後の「特別おにぎり」を取り出した。
「……あなたにだけは、今日一番の『正解』を差し上げなくては。……はい、あーん、なさいな」
「……不、……不合理だ。……人前でそのような……。……だが、……毒見は義務だからな」
セドリックは赤くなった顔を背けながらも、リリアーヌの手からおにぎりを受け取り、幸せそうに頬張った。
国境を越えた「女神の審判」は、最高の満足と共に幕を下ろした。
いよいよ明日、街には二人の愛と美食の象徴である、巨大レストランがその産声を上げる。
物語は、ついに最終盤の輝きへと向かっていた。




