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第27話:王宮の食糧危機と、王子の後悔


 巨大レストランの鉄骨が青空に向かって高々と組み上がっていく。

 領主館の窓からその景色を眺めるのは、リリアーヌ・ド・グランヴェルにとって、朝の「毒見」に次ぐ至福の習慣となっていた。工事の槌音は、わたくしたちが作り上げる「お代わり自由の聖地」の鼓動のように聞こえる。

 

 だが、そんな晴れやかな気分を台無しにするような、一通の薄汚れた書状が届いたのは、よく晴れた火曜日の昼下がりのことだった。


「……リリー。母国の王宮から、君宛てに親展の親書が届いている。……封筒の紙質からして、かなりの困窮が伺えるがね」


 執務室でセドリック様が差し出したのは、かつてのわたくしなら見間違えるはずもない、ベルシュタイン王家の紋章が入った封筒だった。しかし、その封蝋は雑に歪み、紙面にはどことなく、高級な脂ではない「安物の油」の染みがついている。


「あら、……懐かしい紋章ですこと。でも、あいにくわたくし、今は新作のカツサンドのソースを調合するのに忙しいんですの。……ゴミ箱へ捨てておいてくださらない?」


「……不合理だ。中身を確認せずに破棄するのは、リスク管理上推奨されない。……読み上げようか?」


 セドリック様は、わたくしの拒絶を無視して、事務的に封を切った。

 彼は眼鏡の位置を直し、まるで領地の人口動態でも読み上げるような平坦な声で、その中身を朗読し始めた。


『リリアーヌ。……君がいなくなってから、この国の食卓は、まるで色のない荒野のようだ。……君が引き抜いていった料理人たちの代わりを、僕は必死に探した。だが、誰が作っても、あの夜に君が残していったような「熱量」が、今の王宮には存在しないんだ』


「……なんですって、今更」


 わたくしは、ルークが焼いた厚切りパンを齧りながら、鼻で笑った。

 エリオット王子の弱々しい筆致が、セドリック様の低い声を通して再生される。


『今の僕の昼食は、焦げたパンと、塩辛いだけのスープだ。……マカロンさえ、以前のような輝きを失ってしまった。……リリアーヌ、君は本当は、僕に「美味しい」と言って欲しかっただけなんだね。……君のあの暴言さえ、僕が不甲斐ない食事を与えていたことへの、悲痛な抗議だったのだと、ようやく理解したんだ……。……もう一度だけ、チャンスをくれないか? 君を王妃として迎え、最高の……最高の「乾いたビスケット」を用意させると誓うから……』


 セドリック様が読み終えると、執務室に沈黙が流れた。

 

 わたくしは、手に持っていたカツサンドの断面をじっと見つめた。

 バネッサが三日三晩タレに漬け込んだ肉は、暴力的なまでの旨味を湛え、ルークのパンはその脂を余すことなく抱きしめている。

 

「……ふん。最高のビスケットですって? 笑わせてくれますわね。……セドリック様、その手紙、わたくしに貸して頂戴」


 わたくしは、セドリック様からその情けない書状をひったくると、わざとらしく、ソースのたっぷりついた指でその文面に触れた。

 王家の紋章の上に、茶色いデミグラスソースの染みがべったりと広がる。


「……あ、手が滑りましたわ。……汚れてしまって、もう読めませんことよ。……セドリック様、あの方に伝えなさいな。わたくし、今の人生で一番、指先まで脂で汚れているけれど、心は最高に満たされておりますわ……と。……お代わりの自由がない国なんて、こちらから願い下げですわよ!」


 リリアーヌは、その書状を丸めて、迷いなくパン屑入れへと放り込んだ。

 未練など、一欠片もない。

 あの方が望んでいたのは、空腹を耐え忍び、自分を飾るための「美しい器」としてのリリアーヌ。

 けれど、セドリック様が認めてくれたのは、おにぎりを頬張り、ソースで口を汚して笑う、不格好な「リリアーヌ」なのだ。


 セドリック様は、わたくしのその潔い(?)行動をじっと見つめていた。

 彼は眼鏡の奥の瞳を僅かに和らげ、自分の手元の書類を脇に寄せると、わたくしの隣に腰を下ろした。


「……合理的判断だな。……不味い食事の記憶に引きずられるのは、現在の君の幸福度を低下させるだけの損失だ。……だが、リリー。君の今の口元の汚れは、領主夫人……いや、我が館のメイドとしての品位を、著しく損なわせていると言わざるを得ない」


「あら。文句を仰るなら、自分で拭けばよろしくてよ?」


 リリアーヌが挑発的に顔を向けると、セドリック様は「……不合理だ」と呟きながらも、自分の高級なシルクのハンカチを惜しみなく使い、わたくしの口元のソースを、それはそれは丁寧に、壊れ物を扱うような手つきで拭い取った。


「……セドリック様。……あなた、さっきから、わたくしのことをずっと注視していらしたわね? ……王子の手紙を読んでいる間の、わたくしの反応を、分析でもしていたのかしら?」


「……ああ。……君の瞳に僅かでも郷愁の揺らぎが生じた場合、即座に『隣国の食事がいかに優れているか』を再教育するための資料を準備していたのだが。……どうやら、その必要はなさそうだな」


 セドリック様の指先が、拭い終わった後も、わたくしの頬に僅かに留まっていた。

 

 あの方は気づいていない。

 自分が「注視・分析」という言葉を盾にしながら、ただわたくしが自分の元を離れないことを確認して、安堵のため息を漏らしていたことに。

 その不器用な執着が、今のわたくしには、母国のどんな甘い愛の詩よりも心地よかった。


「……ふん。安心なさいな。わたくし、ここの『お代わり』を全部食べ尽くすまでは、どこへも行きませんわよ。……あ、セドリック様。……毒見、お願いしますわね。……このカツサンド、あなたに一口、……大きな一口を、分けて差し上げてもよろしくてよ」


「……よろしい。……不測の事態を防ぐため、全力で検分させてもらおう」


 二人は、窓の外に広がる「食の聖域」の建設現場を眺めながら、一つのカツサンドを分け合った。

 

 一方で。

 母国の王宮の食堂。

 エリオット王子は、自分の元へ戻ってきた、ソースの染みだらけで丸められた自分の手紙を見て、声を上げて泣き崩れた。

「……リリアーヌ。……君は、君はそんなに……あっちの飯が、好きなのか……っ!!」


 王子の後悔は、もはやお腹を満たす役には立たなかった。

 

 女神の視線は、既に国境の向こう側――「誰でもお代わりができる、理想の食卓」へと向かっていた。

 


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