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第26話:セドリックの「独占欲」と深夜の毒見会

 巨大レストランの建設が始まってからというもの、わたくし、リリアーヌ・ド・グランヴェルの日常は、公爵令嬢時代よりも、そしてメイドとして働き始めた当初よりも、遥かに凄まじい密度の「熱狂」に支配されていた。

 朝はルークのパン焼きの匂いで目を覚まし、昼はバネッサと現場の足場で肉を食らい、午後はトトの魚の仕入れに立ち会い、夕方はザックスとお米の銘柄について激論を交わす。

 泥にまみれ、額に汗して、四天王たちと夢の城を築き上げる日々。それは、淑女としての品位をどこかに置き忘れてしまうほどに充実していた。


 だが、わたくしが充実すればするほど、館の中に一人、不機嫌という名の暗雲を撒き散らしている男がいることには、薄々感づいてはいたのですわ。


「……はぁ、疲れましたわ。今日はもう、お風呂に入って寝てしまいたいですこと」


 深夜。ようやく現場から戻ったわたくしは、重い脚を引きずりながら、自室へと向かっていた。

 あの方――セドリック様とは、ここ数日、まともに言葉を交わしていなかった。廊下ですれ違っても、わたくしは設計図を片手に「あ、お疲れ様ですわ!」と手を振るのが精一杯。あの方の眼鏡の奥の瞳が、かつてないほど冷徹に、そしてどこか恨みがましくこちらを射抜いていたことにも、気づかないふりをしていた。


 だが、わたくしの安眠への希望は、一人の若いメイドが差し出した「命令書」によって無惨に打ち砕かれた。


「リリアーヌ様。……旦那様より、至急、執務室へ出頭せよとの伝言です。……『不測の事態につき、一刻を争う』とのことですわ」


「一刻を争う……!? まあ、また母国の王子が攻めてきたのかしら!?」


 わたくしは眠気を吹き飛ばし、廊下を走った。

 執務室の重厚な扉を勢いよく開け放つと、そこには、深夜だというのに完璧に身なりを整え、険しい表情で机に向かっているセドリック様の姿があった。


「セドリック様! 何事ですの!? 敵襲? それとも予算の崩壊かしら!?」


「……遅い。……一分二十秒の遅刻だ。……合理的対応能力の低下が著しいな、リリー」


 セドリック様は顔を上げると、わたくしをじっと見つめた。

 その瞳には、確かに「危機感」のようなものが宿っている。だが、机の上を見て、わたくしは絶句した。

 そこには、地図や予算書ではなく、湯気を立てる色とりどりの小皿料理が、宝石箱のように並べられていたのだ。


「……なんですの、これ。これが、一刻を争う不測の事態?」


「……そうだ。極めて深刻な事態だよ」


 セドリック様は椅子から立ち上がり、わたくしのすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

 あまりの近さに、わたくしは一歩後退りしようとしたが、背中に扉が当たり、退路を断たれた。


「……リリー。ここ三日間の、君と私との合計接触時間は、一分四十二秒だ。……これは、私の管理下にある『女神』のコンディションを把握するには、統計学的に不可能な短さだ。……さらに報告によれば、君は現場で、あのガサツな四天王どもとばかり食事を共にしているというではないか」


「……なによ、それが悪いんですの?」


「……大問題だ。……不衛生な、いや、刺激の強すぎる彼らの料理ばかりを摂取し続けることで、君の繊細な味覚という名の資産が、摩耗している懸念がある。……よって、私が緊急の『味覚矯正』を行うことに決定した。……さあ、座りたまえ」


(……なによ、なんなのよ、この男。……要するに、わたくしとお喋りしながら夜食を食べたかっただけではありませんの!)


 わたくしは、彼のあまりに回りくどい、そしてあまりに必死な「事務的な言い訳」に、呆れを通り越して、胸の奥が不規則に跳ねるのを感じた。

 セドリック様は、わたくしを強引にソファに座らせると、自らスプーンを手に取った。

 そこに並んでいたのは、下町のガッツリ飯ではなく、わたくしの好物を知り尽くした館のシェフが、極限まで手間暇をかけて作った、繊細で温かなスープや小皿料理の数々だった。


「……毒見だ。……口を開けなさい」


「なっ……! 自分でお食べになりますわよ! わたくし、子供ではありませんことよ!」


「……不備があってはならない。……君の反応を、直接観測する必要がある。……ほら」


 セドリック様の大きな手が、スプーンをわたくしの唇に近づける。

 断ろうとした。けれど、彼の眼鏡の奥にある、どこか「捨てられた子犬」のような切実さを孕んだ瞳を見て、わたくしは「……もう、仕方ありませんわね」と、不本意ながらも唇を開いてしまった。


 温かな、そして深い旨味が口腔内に広がる。

 現場の慌ただしさの中で忘れていた、ゆったりとした時間が、胃袋から心へと染み渡っていく。


「……美味しい。……美味しいですわ、セドリック様。……悔しいけれど、やっぱり館の食事は、心が落ち着きますわね」


「……そうか。……なら、もう一口だ」


 セドリック様は、わたくしが食べる様子を、一秒も逃さず「注視」していた。

 彼の手が動くたび、二人の指先が皿の上で微かに触れ合い、静かな執務室に、咀嚼の音だけが優しく響く。

 気づけば、わたくしの心の中にあった多忙によるトゲトゲしさは、バターのように溶けて消えていた。

 あの方は、合理的な管理責任だの、味覚の矯正だのと言いながら、ただわたくしに「休息」と「独占される時間」を分け与えてくれていたのだ。


「……セドリック様。……あなた、わたくしがいなくて、そんなに寂しかったのですの?」


 意地悪く、覗き込むように尋ねてみた。

 すると、セドリック様は一瞬だけ絶句し、耳の裏まで真っ赤に染めて、そっぽを向いた。


「……心外だ。……私はただ、リソースの配分を見直しただけだ。……君の笑顔という、我が領地の重要機密が、他者の目に入る時間を制限し、私の専属領域に戻したに過ぎない」


「……ふふっ。やっぱり、最高におバカな理屈をこねる、愛おしい領主様ですわね」


 わたくしは、残ったスープを自分の手で飲み干すと、そっと、彼の外套の袖を掴んだ。

 セドリック様は、驚いたようにわたくしを見たが、逃げようとはしなかった。


「……いいわ。明日からは、三十分に一度、わたくしの元気な顔を見に現場までいらっしゃいな。……あなたの『注視』がないと、わたくしも、お代わりのペースが狂ってしまいますもの」


「……ふむ。……三十分に一度か。……移動コストは高いが、得られる利益を考えれば……採用しよう」


 二人の指先が、空になった皿の上で重なる。

 深夜の贅沢な静寂。

 わたくしは、この不器用な男が作り出す、世界で一番「重くて温かな檻」の中にいることに、至上の幸福を感じていた。


 しかし、その温かな時間を切り裂くように。

 夜の窓の外、国境の空には、エリオット王子の放った「救出」を告げる魔導花火が、不気味な白光を放ちながら打ち上がっていた。


「リリアーヌ……! 救いの合図だ! 君がどんなにその領主に甘やかされていても、僕の愛の方が上だということを、明日、証明してあげるからね!」


 王子の執念が、最後の悪あがきを始めようとしていた。

 だが、わたくしの隣には、計算機のように冷徹で、そして誰よりも熱くわたくしを欲してくれる、最高の相棒がいる。

 女神の夜食会は、嵐を前に、さらに深く結びついていくのであった。


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