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第29話:セドリックの「計算違い」と、永遠の毒見役


 巨大レストラン『女神の聖域』。

 明日、ついにその産声を上げる食の城は、月明かりの下で静かに息を潜めていた。

 四天王たちの賑やかな怒鳴り声も、宮廷料理人たちの慌ただしい足音も、今はもう聞こえない。広大なメインホールに並べられた、数百もの椅子とテーブル。磨き上げられた床には、窓から差し込む銀色の月光が鏡のように反射し、静謐な輝きを放っている。


 わたくし、リリアーヌ・ド・グランヴェルは、その中心で独り、天井を仰ぎ見ていた。


(……ようやく、辿り着きましたのね)


 母国の王宮を追い出され、泥に塗れたドレスで国境を彷徨っていた、あの日の絶望。

 お腹を空かせたまま、誰にも本音を言えず、言葉の裏を読み取ってもらえなかった、あの空虚な日々。

 それが今では、この隣国で、多くの人々の胃袋を満たし、笑い声に囲まれる「女神」としての居場所に変わっていた。


 コン、コン、と。

 静寂を裂くように、聞き慣れた、規則正しい足音が響いた。


「……リリー。やはりここにいたか。明日の落成式を前に、最終的な現場確認かね?」


 振り返ると、そこにはセドリック様が立っていた。

 彼はいつものように眼鏡の奥の瞳を書類に落としていたが、その表情はどこか、いつもの「領主としての冷徹さ」とは違う、微かな熱を帯びているように見えた。


「セドリック様。……ええ、そうですわ。わたくしが認めた椅子に、誰が最初に座るのか、確認しておかなければなりませんもの。……あなたも、お忙しいはずでは? 明日の警備計画の最終確認が残っているのでしょう?」


「……ああ。完了したよ。……だが、一つだけ、どうしても私の計算式に当てはまらない、致命的な不確定要素が残っていてね」


 セドリック様は、わたくしのすぐ隣まで歩み寄ると、一冊の「最終収支報告書」を机に置いた。

 そこには、レストランの建設費用、食材の調達コスト、そしてリリアーヌという存在がもたらした、計り知れない経済的利益が、緻密な数字で列挙されていた。


「……リリー。君がこの地に来てから、我が領地の幸福度は三〇〇パーセント上昇し、治安維持コストは逆に減少した。……君が『お腹いっぱい』を叫ぶたび、この国は豊かになった。……ここまでの計算に、間違いはない」


「……ふん。当然ですわ。わたくしの食欲を甘く見ないで頂戴」


「……だが。……この報告書の末尾に、君の『今後の身分』を記載しようとして、ペンが止まった。……君を『預かり物』や『臨時のメイド』として扱う契約は、今日で終わる。……明日から、君は自由だ。母国へ帰ることも、どこか別の国で女神として君臨することも、君の自由意思に委ねられている」


 セドリック様の声が、僅かに低くなった。

 自由。

 それは、わたくしがかつて喉から手が出るほど欲しかったもののはずだった。

 けれど、今のわたくしにとって、その言葉は冷たい風のように、胸の奥を通り過ぎていった。


「……セドリック様。……わたくしに、出ていけと仰るの?」


「……いや。……不合理だと言っている」


 セドリック様は、書類から視線を上げ、わたくしの瞳を真正面から射抜いた。

 彼の大きな手が、わたくしの震える指先を、そっと、しかし逃がさない強さで包み込んだ。


「……リリー。私の人生の予定表には、あらゆるリスクへの対策が書き込まれている。……だが、明日からの私の予定表に、君のいない一分一秒が存在することは、私の人生において最も非効率で、受け入れがたい損失だ。……君がいない朝食、君のいない毒見会、君のいない鼻歌……。それらを欠いた私の統治など、ただの空虚な数字の羅列でしかない」


「……セドリック、様……」


「……君のツンとした言葉の裏に、どれほどの不安と、どれほどの優しさが隠れているか。……それを解読できるのは、世界で私一人だけでありたい。……これは、領主としての独占欲ではない。……一人の男としての、極めて不合理で、救いようのない『執着』だ」


 あの方は、眼鏡を外し、わたくしの顔を覗き込んだ。

 眼鏡のない彼の瞳は、驚くほど澄んでいて、そこには隠しようのない熱い情熱が、静かに燃えていた。


「……リリー。私は君の『毒見役』を、一生、辞めるつもりはない。……君が隣で笑いながら食べる姿を、誰よりも近くで注視し続ける権利を……私に、終身契約として承認してくれないか? ……君の人生という名の舞台の、お代わり自由な指定席を……私に、永遠に預けてほしい」


 それは、あの方らしい、最高に理屈っぽくて、最高に愛の詰まったプロポーズだった。

 

 お代わり自由。終身契約。

 その事務的な言葉の中に、わたくしへのすべてが込められていることを、わたくしの心は一瞬で理解した。


「……っ、……あ、あなた、……本当に、最後まで理屈っぽい男ですこと……!」


 リリアーヌの目から、溢れそうになっていた涙が、一気に決壊した。

 わたくしは、彼の手を力いっぱい握り返し、その胸の中に飛び込んだ。

 セドリック様の大きな腕が、わたくしを包み込む。彼の心臓の音が、わたくしの耳に、不規則で力強いリズムを刻んでいる。


「……ふん! わたくしを一生養うのが、どれほど大変なコストになるか、身を以て教えてあげますわよ! 毎日、お米を十杯は炊かせますから! 毒見だって、一ミリも妥協を許しませんわよ!」


「……ああ。……受けて立とう。……君が満足しすぎて動けなくなるまで、私は君に、最高の正解を差し出し続けよう」


 リリアーヌは、涙声で笑いながら、彼の胸に顔を埋めた。

 

(……ああ、わたくし。……ようやく、見つけましたわ)


 飾りのない自分を認め、不器用な言葉を拾い上げ、共に歩んでくれる、最高の「翻訳機」。

 セドリック様は、わたくしの額に、誓いという名の、優しく温かな「毒見」のキスを落とした。

 それは、どんな宮廷の宝石よりも眩しく、わたくしの魂を満たしてくれた。


 月明かりの下、重なり合う二人の影。

 巨大レストランの落成は、二人の新しい人生の、始まりの鐘でもあった。

 



 一方で。

 国境を越え、自国へと引き返していったエリオット王子。


 彼は、かつてリリアーヌに贈った冷たいマカロンを手に、夜空を見上げていた。

「……リリアーヌ。……君の隣にいるのが、僕じゃなくて……あの、不愛想な男だなんて。……でも、君が……あんなに幸せそうな顔をして……」

 王子の後悔は、もう、誰の邪魔をすることもなく、夜風に消えていった。


 明日の朝になれば、この場所は世界一の香りと、世界一の笑顔で満たされるだろう。

 リリアーヌは、セドリック様の腕の中で、明日という日の「メニュー」を思い描きながら、静かに、そして幸福に満ちて目を閉じた。



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