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第24話:母国からの「味」の亡命者

 領主館の正面門は、ここ数日、隣国の新たな「聖地」としての様相を呈していた。

 だが、その日の朝、門前に現れた一団は、これまでの「女神の加護」を求めてやってきた隣国の料理人たちとは、明らかに雰囲気が異なっていた。

 彼らは、一点の汚れもない真っ白なコックコートを纏い、背筋を不自然なほどぴしりと伸ばしている。その頭上に戴く高いコック帽は、かつてわたくしが母国の王宮で見慣れた、あの「宮廷料理人」たちの証であった。


「――お願いです、女神様! どうか、我らをお側においてください! あのような『一口サイズの虚飾』しか認められない国には、もう一秒たりともいられません!!」


 リリアーヌ・ド・グランヴェルが階段の上に姿を現した瞬間、男たちは一斉に石畳に膝をつき、必死の面持ちで頭を下げた。

 リリアーヌは、扇子で口元を隠しながら、彼らの一人ひとりを、品定めするように冷ややかに見下ろした。


「あら。……見覚えがありますわね。そこのあなた、わたくしの婚約破棄の夜、最後の口直しのシャーベットを、親指の爪ほどのサイズに盛り付けた方じゃありませんこと?」


「っ……! お、お気づきでしたか……! あの時は申し訳ございません! ですが、あれが我が国の『美学』だったのです! 残さず、美しく、高貴な香りを一瞬だけ楽しむ……。しかし、あの日、お嬢様が去られた後の厨房で、我々は気づいてしまったのです。……誰も、腹が満たされていないことに!」


 宮廷料理人の長と思われる初老の男が、絞り出すような声で訴えた。

 リリアーヌが母国を去り、隣国で「お代わり自由」の旋風を巻き起こしている噂は、母国の調理場にも激震として伝わっていた。

「リリアーヌ様が、生姜焼きを三杯お代わりした」「領主館でカツサンドの山を築いている」

 そのニュースは、空腹と美学の狭間で苦しんでいた職人たちの魂に、禁断の火をつけてしまったのだ。


「……ふん。わたくしを裏切った国を捨ててきたというのなら、それなりの覚悟は見せていただきますわよ。……ザックス、バネッサ、ルーク、トト! この『お上品すぎる方々』に、我が領地の洗礼を浴びせて差し上げなさいな!」


 リリアーヌの号令に応じ、厨房から四天王たちがニヤニヤと笑いながら現れた。

 宮廷料理人たちは、自分たちの技術を証明しようと、繊細なハーブ使いや、宝石のような飾り切りを披露しようとした。だが、リリアーヌはそれを一瞥しただけで、無慈悲に切り捨てた。


「……美しすぎて、お腹が鳴りませんわ。それは料理ではなく、ただの『置物』ですことよ。……ザックス、見せてあげなさい」


 ザックスが、巨大な鉄鍋をドン、と置いた。

 中に入っていたのは、母国の洗練されたコンソメスープとは真逆の、不透明で、ドロリとして、しかし強烈なスパイスと肉の脂の香りを放つ、下町の「濃厚煮込み」だった。


「食ってみな。……これが、女神様が認めた『命の重み』だ」


 宮廷料理人たちは、震える手でそのスープを口にした。

 一口。二口。

 彼らの顔色は劇的に変わり、やがて、全員がその場に泣き崩れた。


「……負けた。……完全なる、敗北だ……! 我々は、舌の上だけで消える魔法を競っていたが、この料理は……胃袋に直接、生きる気力を叩き込んでくる……!!」


 リリアーヌは、泣きじゃくる彼らの前に歩み寄ると、厳しく、しかし慈愛に満ちた声をかけた。


「……泣いている暇があったら、その技術を使いなさいな。……あなたたちの繊細なデミグラスソースの知識、それをバネッサの野性味あふれる肉、そしてルークの厚切りパンと組み合わせれば、どんな不合理な絶望さえも吹き飛ばす『至高の一品』ができるはずですわ!」


 リリアーヌのプロデュースにより、即席の共同調理が始まった。

 宮廷料理人たちの「三日かけて濾したソース」が、バネッサの「丸焼きにした牛の塊」と出会い、ルークの「外はカリッと中は飲み物のようなパン」がそれを迎え撃つ。

 完成したのは、溢れんばかりの肉塊が泳ぐ、黄金色の『女神のビーフシチュー』。


 リリアーヌは、出来上がったそれを、ためらうことなく大きな木のスプーンで掬い上げ、口いっぱいに頬張った。


「んんん……っ!! 美味しい……! 美味しいですわ! 宮廷の気品が、下町の暴力的な旨味にひざまずいておりますわよ! これなら、わたくし、お米五杯はいけてしまいますわ!!」


 リリアーヌのその「心からの満足」を見た亡命料理人たちは、今度こそ自分たちの新しい道を見出した。彼らは宮廷のプライドを脱ぎ捨て、隣国の食文化をさらなる高みへと引き上げるための「女神の親衛隊」へと生まれ変わったのである。


 

 その夜。

 出来上がったシチューの残りを、館の使用人たちと共に味わっていたリリアーヌの前に、いつものように無表情なセドリックが現れた。

 だが、今日の彼の瞳は、いつになく鋭く、冷たい。

 彼はリリアーヌの周囲で「女神様、こちらも召し上がってください!」「ソースの隠し味にご意見を!」と群がる亡命料理人たちを、射殺さんばかりの視線で威嚇していた。


「……リリー。人材の流入は、領地の知的資本の増大として歓迎するが。……これほど不特定多数の男たちが君のパーソナルスペースに侵入するのは、私の警備計画において致命的な不利益だ」


「……あ、あなた、また変な理屈を。……彼らはわたくしのアドバイスを聞きに来ているだけですわよ?」


「……不合理だ。……君の時間は、一秒たりとも無駄にはできないはずだ。……それに、新しい味の『安全性』を確認せねばならない。……亡命者が君を暗殺しようとしている可能性を、私は一パーセントも排除していないのだから」


 セドリックはそう言い張ると、リリアーヌの手から、今まさに食べようとしていた「シチューに浸した厚切りパン」を、スッと、しかし強引に奪い取った。


「なっ……! また、また横取りですの!? あなた、今日は毒見なんて必要ないでしょうに!」


「……重大な『入国審査』だ。……黙って見ていたまえ」


 セドリックは無表情のまま、シチューの染み込んだパンを口に運び、念入りに咀嚼した。

 リリアーヌの視点から見て、セドリックが味に感動しているのを必死に隠そうとして、いつもより咀嚼の回数が増え、喉を鳴らす音が以前よりも力強くなっているのは、もはや隠しきれていなかった。


「……異常なしだ。……リリー。この料理は、確かに効率的な多幸感をもたらす。……だが、彼らが君の隣でそれを語る権利はない。……評価を下すのは、私だ」


「……もう、あきれた独裁者ですこと」


 リリアーヌは、プンプンと怒りながらも、お代わりのシチューをセドリックの皿に山盛りに注いであげた。

 セドリックはそれを「事務的」に受け取りながらも、リリアーヌが亡命料理人たちに向けていた笑顔を、今度は自分の方に向けさせることに、かつてない執念を燃やしていた。


 リリアーヌは、そんな彼の不器用な縄張り意識を、「……相変わらず、食い意地の張った人ですわね」と、ほんの少しの呆れと、それを上回る大きな愛おしさで見つめていた。


 一方。

 母国の王宮では。

 腕利きの料理人たちが次々と失踪したことで、エリオット王子の食卓は、今や「焦げたパンと塩気の足りないスープ」だけになっていた。

「……リリアーヌ。……君がいなくなってから、……この国は、どうしてこんなに『不味く』なってしまったんだ……?」

 王子が後悔の念に震える中、隣国の女神の都は、さらなる美食の絶頂へと向かっていた。


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