第23話:領主の不合理な予算編成
領主館の主執務室に、朝から羽ペンの走る音が、いつになく激しく響き渡っていた。
リリアーヌ・ド・グランヴェルは、淹れたての紅茶を盆に乗せて部屋に入ったが、そこに広がる光景に、思わず目が点になった。
机の上だけでなく、床にまで溢れんばかりの書類の山。それもすべて、数字がびっしりと書き込まれた「予算編成書」の束である。
「……セドリック様。お茶を持ってきましたわよ。……それから、この紙の山は何事ですの? また、どこかの港に不必要なほど巨大な倉庫でも建てる計画かしら?」
リリアーヌが呆れ顔でカップを置くと、セドリックは眼鏡の奥の瞳をギラつかせたまま、顔も上げずに答えた。
「……倉庫ではない。来期の重点投資項目だ。……検討の結果、我がアステリア領の次期成長戦略を『美食による領民の幸福度向上、および対外的観光誘致』に一本化することに決定した」
「……はぁっ!?」
リリアーヌは、思わず盆をひっくり返しそうになった。
セドリックは、手近な書類を一枚引き抜くと、それをリリアーヌの鼻先に突きつけた。そこには『女神の加護による領内総生産の倍増計画』という、不敬極まりない、しかし驚くほど緻密なタイトルが踊っていた。
「……リリー。君が街で金貨をばら撒き、料理人を指導した結果、この数ヶ月で領内の食糧流通額は前年比三〇〇パーセントを記録した。これは、単なる流行ではない。……立派な経済現象だ。ならば、領主としてこれに公的資金を投じ、最大効率で収益化するのは合理的判断だろう?」
「……な、……なんですって……」
「まずは、館の西側の一角を完全に改装し、君と四天王が二十四時間体制で研究に没頭できる『美食開発室』を建設する。……もちろん、機密保持のために壁は二重にし、私の執務室から最短距離で直通の通路を設ける。……これで、君が街で正体不明の料理人に笑顔を振りまき、時間を浪費する不合理も解消されるというものだ」
リリアーヌは、絶句した。
彼が淡々と述べる「合理的理由」の裏側を、今の彼女の鋭い感性が見逃すはずもなかった。
(……この男、わたくしを館に閉じ込めて、自分だけが『毒見』を独占するために、領地の国家予算を動かそうとしていますわよ!?)
「……セドリック様。……あなた、それを『独占欲』と呼ぶのだと、どなたか教えてくれませんでしたの?」
「独占欲? ……心外だな。私はただ、君という希少なリソースが他者の無益な視線によって摩耗するのを防ぎたいだけだ。……これを愛着などという非科学的な言葉で定義するのは、極めて不正確だと言わざるを得ない」
セドリックは、真顔で、しかも本気でそう言い張った。
リリアーヌは、呆れを通り越して、どこか胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えた。これほどまでに巨大な屁理屈を積み上げなければ、わたくしへの執着を認められないこの男の不器用さが、今の彼女には酷く愛おしく感じられたのである。
しかし、事態は二人だけの問題では終わらなかった。
同日の午後、館の会議室で行われた財務官たちによる予算会議は、阿鼻叫喚の渦に包まれていた。
「旦那様! 正気ですか!? この『女神専用お代わり基金』という項目は何ですか!」
「美食開発室の建設費だけで、橋が二本架けられますぞ! 合理主義の権化だった旦那様は、一体どこへ行かれたのですか!!」
財務官たちの悲痛な叫びが廊下まで漏れ聞こえてくる。
セドリックは無表情のまま、「……その橋を渡る人々が、空腹で絶望していれば、領地の治安は維持できない。……不合理だ」と、強引な論理を押し通そうとしていた。
その時。
会議室の扉が、ドォォン! と豪快に開け放たれた。
「――皆様! 頭だけで考えているから、お顔がそんなに不健康に歪むのですわよ!」
リリアーヌが、四天王たちを従えて乱入してきた。
彼らの手には、館中に漂う甘酸っぱい、抗いがたい香りを放つ大きな鍋が握られていた。
「女神様……! 準備はできていますぜ! 四天王の英知を詰め込んだ、『来期予算承認確定・ハヤシライス』だ!」
ザックスが、大振りの皿に炊き立ての白米を山盛りにする。その上からバネッサが三日三晩煮込んだという、漆黒に近い褐色に輝くデミグラスソースを、たっぷりと注ぎ込んだ。
肉は口の中で溶けるほど柔らかく、玉ねぎの甘みがソースに深みを与え、最後にトトが隠し味に加えた海の幸の出汁が、味に圧倒的な広がりを持たせていた。
「さあ、財務官の皆様! 理屈で分からないなら、胃袋で理解しなさいな! これが、わたくしがこの領地にもたらす『富の味』ですわ! 食べないのなら、わたくしが全部お代わりして差し上げますことよ!」
リリアーヌの、女神としての威厳(と食欲)に圧倒された財務官たちは、恐る恐るスプーンを口に運んだ。
「っ……!!」
「な、なんだ、この……脳を直接揺さぶるような旨味は……!」
「この、米……! ソースを一滴も逃さず、喉へと運んでいく……! これが、これが女神の力だというのか……!」
一口食べた瞬間、会議室の殺気は消え失せた。
財務官たちは、もはや予算のことなど頭にない様子で、無我夢中でお代わりを連発し始めた。
「……旦那様。……承認いたします。……この味が我が領地を席巻するなら、予算など安いものです……!」
涙ながらに書類に判子を押す財務官たちの姿を、リリアーヌは勝ち誇ったような笑顔で見守った。
セドリックは、その喧騒の隅で、リリアーヌが自分のために一足早く取り分けておいた「特大ハヤシライス」を、実に満足げに(無表情だが)頬張っていた。
深夜。
嵐のような会議が終わり、二人きりになった執務室。
リリアーヌは、疲れ果てて椅子に沈んでいるセドリックの隣に座った。
「……セドリック様。あなた、本当におバカな人ですこと。……わたくし一人のために、あんなに強引な予算を通すなんて。……わたくしを利用して領地を豊かにするなんて、腹黒い男ですわね」
「……利用? ……買い被りだな。……私はただ、予測を立てただけだ」
セドリックは眼鏡を外し、少しだけ疲れたような、しかし穏やかな瞳でリリアーヌを見つめた。
「……君が、明日のお代わりを楽しみにして、この館で眠りにつく。……その当たり前の事象を維持するために必要なコストを、私は計算しただけだ。……君が飽きることなく、この領地で『美味しい』と笑い続けてくれるなら……予算など、いくらでも捻り出す」
「……っ、……あ、あなた、……今の台詞、不合理なほどにかっこつけすぎていてよ……」
リリアーヌは顔を真っ赤にして、視線を逸らした。
彼が自分を離さないために、理屈と予算という名の巨大な「檻」を、必死に作り上げている。その重すぎるほどに真剣な執着が、今の彼女には、どんな宝石よりも価値があるものに感じられた。
「……ふん。ならば、一生わたくしに投資し続けることですわね! ……毒見、明日はもっと難易度の高いものを用意して差し上げますわよ!」
「……ああ。……受けて立とう」
二人の距離は、もはや書類の山では隔てられないほどに近づいていた。
だが、そんな平和な美食の都に、新たなる「味」の亡命者たちが近づいていることを、二人はまだ知らなかった。




