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第22話:女神、プロデューサーになる


 嵐が去った後の領主館は、以前の静謐を取り戻すかと思いきや、正反対の方向へと突き進んでいた。

 あの日、エリオット王子の軍勢を「食の熱気」で追い返したリリアーヌ・ド・グランヴェルの噂は、尾鰭どころか翼が生えたような勢いで隣国中に広まっていた。

「隣国に、一口で料理の本質を見抜き、経済を動かす『美食の女神』が現れた」

 そんな荒唐無稽な噂が、領地を越えて各地の職人たちの耳に届くまでに、そう時間はかからなかったのである。


「――お嬢様! 大変です、また門の前に馬車が列を作っていますわ!」


 若いメイドの声に、リリアーヌは鏡の前で優雅に肩を竦めた。

 玄関先には、隣国各地から集まった料理人や菓子屋、果ては醸造家たちが、自慢の一品を携えて「女神の裁定」を仰ごうと押し寄せていた。彼らにとって、リリアーヌに認められることは、金貨一枚以上の宣伝効果と、そして何より料理人としての「最高の名誉」になりつつあったのだ。


「……ふん。わたくしの休息を邪魔するなんて、不躾な方々ですこと。……けれど、よろしい。美味しいものを持ってくるというのなら、無碍にするのも非合理的ですわね」


 リリアーヌは、いつの間にかセドリックの口癖を借りている自分に気づき、慌てて頬を赤らめて咳払いをした。

 彼女は館の中庭に特設された「審判の席」へと向かった。

 そこには、既に数組の料理人が、震える手で皿を差し出していた。


「……これは、北の港町で獲れた蟹のクリームコロッケですわね。……どれ」


 リリアーヌは銀のフォークを手に取り、一口食した。

 公爵令嬢として培われた絶対的な味覚。そして隣国に来てから覚醒した「お米を美味しく食べる」という生存本能が、瞬時にその料理の構造を解体していく。


「……やり直しですわ」


「なっ……! そんな、女神様! これは我が店で一番人気の……」


「味は良いわ。衣の食感も完璧。……けれど、あなた。このクリーミーなソース、これでは白米を二杯しか食べられないではありませんの! もっと隠し味に味噌を練り込むか、あるいはソースに酸味を利かせなさい! そうすれば、お米は三杯……いえ、四杯はいけますわ。……出直しなさいな!」


「み、味噌……! なるほど、その発想はなかった! ありがとうございます、女神様!!」


 料理人は涙を流して平伏し、新メニューの開発のために飛ぶように去っていった。

 次に差し出されたのは、色鮮やかなタルトだった。


「……この果実は素晴らしいわ。けれど、土台の生地が甘すぎて、紅茶の繊細な香りが死んでいますわよ。甘みを三割抑え、代わりに少しの塩気を加えなさい。そうすれば、無限に食べられる『罪深き一皿』になりますわ。……修行してきなさい!」


「し、塩気……! さすがは女神様だ!!」


 リリアーヌが言葉を発するたび、周囲を取り囲む料理人たちは熱心にメモを取り、感嘆の声を上げる。

 彼女がかつて王宮で「殿下のネクタイが変ですわ!」と叫んでいたあの鋭い毒舌は、今や「料理を至高へと導く天啓」として熱狂的に迎え入れられていたのである。

 リリアーヌは、自分が誰かを指導し、それによって新しい「美味しい」が生まれる過程に、かつてない高揚感を覚えていた。


 その光景を、館の二階のテラスから、一人の男がじっと見下ろしていた。

 セドリック・フォン・アステリアである。

 彼は書類の束を抱えたまま、一時間以上もその場を動かず、リリアーヌの姿を「観察」していた。


(……不合理だ。彼女は我が館のメイドであり、私の個人的な預かり物だったはずだ。……それがなぜ、今やこの領地、いやこの国の『食』の中心人物として君臨しているのだ)


 セドリックは、眼鏡を指先で直し、瞳を細めた。

 彼の視線は、リリアーヌが料理人と笑い合い、あるいは厳しく叱咤しながら生き生きと輝くその表情に固定されていた。

 彼女が料理を口にする際、わずかに細められる睫毛の動き。

 納得がいった時にだけ見せる、あの不敵で美しい笑み。

 それらを一つひとつ、彼は記憶という名のアーカイブに詳細に記録していく。……以前よりも、ずっと執拗に。


「(心の声)……なぜだろうな。彼女が誰か他の料理人の言葉に頷くたびに、胸の奥に未知の熱が発生する。……これは、規律の乱れに対する憤りか。あるいは……」


 セドリックは、自分の内側に生じた「独占欲」という名の不確定要素に、未だ名前をつけられずにいた。だが、リリアーヌが新しい若手の料理人から熱烈な感謝の握手を求められそうになった瞬間、彼の身体は思考よりも早く動いていた。


「――そこまでだ」


 静かな、しかし有無を言わさない声が広場に響く。

 セドリックが階段を降り、リリアーヌと料理人たちの間に、壁のように立ち塞がった。


「せ、セドリック様? お仕事中ではなかったのですか?」


「……中断した。これ以上の不特定多数による食材の持ち込みは、衛生管理上のリスクが高すぎると判断したためだ」


 セドリックはそう言いながら、リリアーヌの前に置かれていた未試食の皿――一口サイズのミートパイ――を、迷いなくひょいと手に取った。


「ちょっ、あなた! それはわたくしが今から……!」


「……毒見だと言っているだろう。安全性が確認されるまで、君に一口も与えるわけにはいかない」


 セドリックは無表情のまま、パイを一口で平らげた。

 咀嚼しながら、彼は周囲の料理人たちを、射殺さんばかりの冷ややかな視線で威嚇した。


「……不備はない。だが、この味を咀嚼し、分析するには、静かな環境が必要だ。……リリー、今日はここまでにする。残りの『検品』は、私の執務室で行うことにする」


「……はぁっ!? 執務室で!? あなた、それただの横取りではありませんの! わたくし、まだ全然お腹がいっぱいになって……!」


「私の……命令だ。……合理的判断に従いたまえ」


 セドリックはリリアーヌの腕を、痛くない程度に、しかし決して逃さない強さで掴み、呆気にとられる料理人たちを後に、彼女を館の中へと連れ去った。


 

 執務室。

 連れてこられたリリアーヌは、頬を膨らませてセドリックを睨みつけた。


「……なんなのですの、今日のあなたは! わたくし、あの方たちにアドバイスをしてあげていたんですのよ! あの方たちの情熱を、あなたが踏みにじるなんて……!」


「……情熱など、数値化できないものに価値はない。……それより、リリー。君は、自分がどれほど不用心か理解しているのか?」


 セドリックが、リリアーヌを机と自分との間に挟むようにして、ぐいと距離を詰めた。

 あまりの近さに、リリアーヌは「ツン」とする言葉さえ忘れ、息を呑んだ。


「……君が、あのように衆人環視の中で無防備に笑い、食べ物を口にする。……それがどれほどの『損失』を招くか。……私の管理下にあるものが、他者の視線や賞賛に晒されるのを、私は非常に不快に感じているんだ」


「……ふ、不快? ……それって、わたくしを心配している……とか?」


 リリアーヌの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 セドリックは一瞬、言葉を詰まらせた。彼は眼鏡の奥で、激しく揺れ動く自身の論理モデルを修正しようと足掻いているようだった。


「……いや。……単なる管理責任の問題だ。……君に何かあれば、私の『お代わり自由』の契約が履行できなくなる。……それは、私にとって耐えがたい合理的損失なのだから」


「……相変わらず、理屈っぽい男ですこと」


 リリアーヌは顔を真っ赤にして、視線を逸らした。

 だが、彼のその不器用な言葉の裏側に、かつてのエリオット王子には一ミリもなかった「自分という個人への執着」があることを、彼女の鋭い感性が嗅ぎ取っていた。


「……ふん。なら、明日からはあなたの分も、わたくしが先に『毒見』してあげてもよろしくてよ。……あなたが変なものを食べて、わたくしのパトロールを邪魔されては困りますもの!」


「……ふむ。……それも一つの合理的解決策だな。採用しよう」


 二人の視線が交差する。

 その空気は、もはや主従のものでも、保護者と預かり物のものでもなかった。

 

 一方。

 城下町では、ザックスら四天王たちが、女神の認定したメニューを旗印に、「女神公認・巨大レストラン街」の建設計画を熱く語り合っていた。

 

 リリアーヌの食欲が、そしてセドリックの無自覚な恋心が、この領地を誰も見たことのない「美食の都」へと変えようとしていた。


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