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第21話:戦い終わって、特盛りカレー

 嵐は過ぎ去った。

 エリオット王子率いる白百合の軍勢が、夕闇の向こうへとその影を消してから一夜。領主館を包んでいた重苦しい緊張感は、朝露と共に綺麗に蒸発してしまったようだった。

 門番たちは欠伸をしながらもどこか誇らしげで、メイドたちは昨日の「女神の勝利」を小声で語り合いながら、いつもより弾んだ手つきで窓を磨いている。


「――皆様! いつまで余韻に浸っていますの! 勝利の後こそ、胃袋を労らなくてどうしますのよ!」


 リリアーヌ・ド・グランヴェルの高らかな声が、館の大きな厨房に響き渡った。

 彼女は、公爵令嬢時代には決して見せなかったような、腕まくりをした活動的な姿で調理台の前に立っていた。その背後には、もはや館の準レギュラーと化した四天王たちが、戦を終えた戦士のような、清々しくも猛々しい顔で勢揃いしている。


「女神様の仰る通りだ! 王子を追い払った興奮で、俺の胃袋は空っぽだぜ!」

「ザックス、気合入れな! 今日はあたしが、とっておきの牛スネ肉を三頭分持ってきたんだ。これをトロトロになるまで煮込んでやろうじゃないか!」


 バネッサが巨大な肉の塊をまな板に叩きつければ、ルークが「こいつには俺の店の、二日かけて発酵させたパンが合うぜ」と焼きたての香ばしい塊を並べる。トトも負けじと、出汁に使うための極上の海産物を運び込んできた。


「……ふん。あなたたち、気合が入りすぎですわ。……でも、よろしい。今日はわたくしも、手加減なしの采配を振るってあげますわ。……名付けて、『女神の戦勝特盛りカレー』ですわよ!」


 リリアーヌの宣言と共に、厨房は再び戦場へと変貌した。

 カレー。それは母国の王宮では「刺激が強すぎる野蛮な異国の煮込み」として、貴族の食卓からは排除されていた料理だった。だが、今のリリアーヌは知っている。スパイスの複雑な香りが、どれほど疲れた魂を鼓舞し、白米という名の聖域を輝かせるかを。


 ザックスが汗を流しながら巨大な釜で大量の米を炊き上げ、バネッサがスパイスと共に肉を炒める。ルークとトトは野菜の甘みを引き出すために、ひたすら飴色になるまで玉ねぎを炒め抜く。

 リリアーヌは、大きな木べらを手に、鍋の様子を厳格に監視していた。


「ザックス! お米は少し硬めに炊きなさいな、あんかけ風のルーと混ざった時に最高の食感になるように! バネッサ、スパイスを焦がしてはダメよ、香りが死んでしまいますわ! トト、隠し味にその魚醤を数滴入れなさい。……そう、それで深みが爆発しますわ!」


 リリアーヌの指示が飛ぶたび、厨房の香りは幾重にも層を成し、館全体へと広がっていった。

 やがて、完成した大鍋の中には、深い褐色に輝き、黄金の脂が表面で踊る、魔力的な魅力を持ったカレーが湛えられていた。


 館の全スタッフが食堂に集められた。

 リリアーヌは、自ら大きな皿を手に取り、そこにザックスが炊き上げた真っ白な米を、山のように――もはや芸術的な曲線を描くほどに高く、よそう。


「さあ、遠慮はいりませんわ! 今日は全品お代わり自由! 昨日の震えを、この熱さで吹き飛ばしてしまいなさいな!」


 リリアーヌが第一号の皿を差し出すと、食堂には爆発的な歓声が上がった。

 一口食べた衛兵が「……あ、熱い! でも、旨い! 力が漲ってくる!」と叫び、メイドたちが「辛いのに、止まりませんわ……!」と涙目になりながら米をかき込む。


 その賑やかな喧騒の中に、いつの間にかセドリックが立っていた。

 彼は入り口で足を止め、かつてないほど活気に満ちた、そして行儀が良いとは言えないが「生」の喜びに溢れたその光景を、じっと見つめていた。


「あら。理屈っぽい領主様。……どうされましたの? 栄養学的に完璧な、いつもの乾燥した食事でも摂りにいらしたのかしら?」


 リリアーヌが、意地悪そうな笑みを浮かべて問いかける。

 セドリックは眼鏡の位置を直し、漂ってくるスパイスの香りを吸い込むと、迷いのない足取りでリリアーヌの前へと歩み寄った。


「……リリー。昨日、私は君の言葉を『翻訳』した。……ならば、その報酬を受け取る権利があるはずだが。合理的判断としてね」


「……はぁっ!? あなた、あんなに恥ずかしいことを勝手に喋っておいて、報酬を要求するつもり!? 厚かましい男ですわね!」


「……不備があったか? 私は事実を述べたまでだ。……それより、その茶褐色の刺激物。……香辛料による新陳代謝の向上と、牛脂によるエネルギー効率の最大化……。今の私の脳内リソースを回復させるには、最適な燃料だと言わざるを得ない」


「……燃料、燃料って。……もう、勝手になさいな!」


 リリアーヌは、プリプリと怒りながらも、セドリックの皿には他の誰よりも多くの「大盛りご飯」と、たっぷりのカレーをよそって差し出した。

 セドリックは、それを受け取ると、食堂の片隅の席に座り、おもむろにスプーンを動かした。


 リリアーヌは、自分の分を皿に盛り、彼の向かいに座って、その様子を観察することにした。

 かつての彼は、食事中に表情を変えることなど万に一度もなかった。しかし、今の彼は違う。

 一口。二口。

 セドリックの喉が絶え間なく動き、その白い頬が、スパイスの熱によって僅かに薔薇色に染まっていく。


(……なによ。文句を言うかと思えば、誰よりも真剣に食べているじゃありませんの。……『毒見』なんて言い訳も忘れて)


「……セドリック様。美味しいですわよね?」


 リリアーヌが覗き込むように尋ねると、セドリックは最後の一口を飲み込み、ゆっくりとスプーンを置いた。

 彼はリリアーヌの瞳をじっと見つめた。その眼差しは、以前の「冷徹なデータ分析」とは明らかに質が違っていた。


「……ああ。……不合理なほどに、満たされる味だ。……この数式の解を出すには、まだ時間がかかりそうだがな」


「……なら、お代わりをしながら考えればよろしくてよ。ザックス! 領主様に、もう一杯持ってきなさいな!」


「おうよ! 旦那、遠慮すんな!」


 セドリックは拒まなかった。

 それどころか、彼はリリアーヌがカレーを頬張り、「ふふっ、美味しいですわ……!」と無防備に微笑むその瞬間を、瞬きも惜しむかのように注視していた。

 彼女の唇の動き。満足げに細められる瞳。喉を滑り落ちる幸せの音。

 それら一つひとつを、彼は脳内の特別な記録領域に、決して消えないインクで書き込んでいるかのようだった。


(……変な人。……でも、昨日のあの人の翻訳があったから、わたくし、今日こんなに美味しいものが食べられているのですわね)


 リリアーヌは、セドリックの視線に気づきながらも、照れ隠しに大振りのカツを口に放り込んだ。

 スパイスの熱さと、胸の奥の微かな高鳴り。

 

 戦勝の炊き出しは、昼下がりまで続いた。

 館全体が、カレーの香りと満腹感によって一つに結ばれたような、不思議な連帯感。

 セドリックは、二杯目のカレーを完食した後、静かに立ち上がった。


「……リリー。明日の予定を確認しておきたい。……君の『パトロール』に同行する時間を確保した。……市場の経済活動を直接観測する必要があると判断したのでね」


「……はぁっ!? またついてくるつもりですの!? 毒見なんて、もう必要ありませんでしょ!」


「……不測の事態は常に発生する。……私は、私の管理下にある『女神』を、一秒たりとも見失うわけにはいかないのだ。……不合理な損失を避けるためにね」


 セドリックはそう言い残し、執務室へと戻っていった。

 

 リリアーヌは、その後ろ姿を見送りながら、最後に残った福神漬けをポリポリと噛み締めた。

「……見失うわけにはいかない、なんて。……やっぱり、あの男の翻訳機は、どこか故障していますわね」


 赤くなった顔を扇子で煽りながら、リリアーヌは窓の外を見た。

 母国の王子はもういない。

 代わりに、目の前には「お代わり自由」の豊かな未来と、理屈っぽくて不器用な、最高の「翻訳機」が寄り添っていた。


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